久慈郡盛金の川野辺氏とは? わかりやすく解説

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久慈郡盛金の川野辺氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/12 04:28 UTC 版)

川野辺氏」の記事における「久慈郡盛金の川野辺氏」の解説

なお、別譜によれば川野辺氏には家祖那珂通重の四世 川辺左衛門尉通朝とする家系があるとされる。通朝の子川野辺下野守昭通といって承久の乱にて鎌倉幕府方として武功挙げたため、執権北条義時より鎌倉居住許されたという。その四小四郎忠通は建武3年1336年)に南朝方についた那珂通辰に随い、久慈甕ノ原にて戦功挙げて恩賞賜ったとされるその後、忠通の子 新兵衛忠経増井一本松にて生害するものの、家系存続しその子 新太郎経高の代に佐竹氏属したという。忠通の子大炊介隆通といい、隆通の女子江戸氏家臣 三村源内嫁したとされる。しかし、隆通に男子がなく常陸守護代 小野崎三河守通茂の次男 丹後守朝隆を養子迎えるという。朝隆の父方 小野崎氏川野辺氏同様藤原秀郷流で守護代務め名家であり、朝隆の母は川井肥前忠次の女であり、その川井氏川野辺氏同様、那珂氏を本家とする同族であった。なお、朝隆の没後、その身は常陸太田浄光寺埋葬されたといわれ、その跡は子信濃守朝行が継いだ信濃守朝行は佐竹宗家義治佐竹義舜同族 山入氏義戦った際、宗家方について武功挙げその子主馬介朝尚は佐竹義篤に随い、部垂城にて佐竹宗家叛旗翻した宇留野義元攻め加わった。朝尚の長男 内記重行天正18年1590年12月19日佐竹義重に随い、川野辺同族でもある守護代 江戸但馬守重通を攻めて手柄立て感状賜ったものの、佐竹義宣関ヶ原の戦い西軍についた責を問われ出羽国秋田転封となると浪人し、久慈郡盛金邑に居住したとされる重行女子佐竹氏一門 小田野大和守義敦に嫁ぎ重行の跡は長男主税宣行が継いだ重行次男 四郎左衛門同所分家した。 また、幕末期には、久慈盛金里正 川野辺太一衛門則美が天狗党の乱にて榊原新左衛門率い天狗党与して戦ったとされ、幕府方捕縛されたという。太一衛門その後慶応2年1866年7月1日武蔵国川越藩経て江戸佃島にて獄死している。また、この時、太一衛門同族である久慈郡義民 河野辺儀之介利義、四郎次盛義も天狗党与党として捕えられ、江戸佃島にて獄死死後三名靖国神社合祀された。

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