久慈郡盛金の川野辺氏
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なお、別譜によれば、川野辺氏には家祖を那珂通重の四世 川辺左衛門尉通朝とする家系があるとされる。通朝の子は川野辺下野守昭通といって、承久の乱にて鎌倉幕府方として武功を挙げたため、執権北条義時より鎌倉居住を許されたという。その四世 小四郎忠通は建武3年(1336年)に南朝方についた那珂通辰に随い、久慈甕ノ原にて戦功を挙げて恩賞を賜ったとされる。その後、忠通の子 新兵衛忠経は増井の一本松にて生害するものの、家系は存続し、その子 新太郎経高の代に佐竹氏に属したという。忠通の子は大炊介隆通といい、隆通の女子は江戸氏家臣 三村源内に嫁したとされる。しかし、隆通には男子がなく常陸守護代 小野崎三河守通茂の次男 丹後守朝隆を養子に迎えるという。朝隆の父方 小野崎氏は川野辺氏同様藤原秀郷流で守護代を務める名家であり、朝隆の母は川井肥前守忠次の女であり、その川井氏は川野辺氏同様、那珂氏を本家とする同族であった。なお、朝隆の没後、その身は常陸太田の浄光寺に埋葬されたといわれ、その跡は子信濃守朝行が継いだ。信濃守朝行は佐竹宗家の義治・佐竹義舜と同族 山入氏義と戦った際、宗家方について武功を挙げ、その子、主馬介朝尚は佐竹義篤に随い、部垂城にて佐竹宗家に叛旗を翻した宇留野義元攻めに加わった。朝尚の長男 内記重行は天正18年(1590年)12月19日、佐竹義重に随い、川野辺の同族でもある守護代 江戸但馬守重通を攻めて手柄を立て、感状を賜ったものの、佐竹義宣が関ヶ原の戦いで西軍側についた責を問われ、出羽国秋田に転封となると浪人し、久慈郡盛金邑に居住したとされる。重行の女子は佐竹氏一門 小田野大和守義敦に嫁ぎ、重行の跡は長男の主税宣行が継いだ。重行の次男 四郎左衛門は同所に分家した。 また、幕末期には、久慈盛金村の里正 川野辺太一衛門則美が天狗党の乱にて榊原新左衛門率いる天狗党に与して戦ったとされ、幕府方に捕縛されたという。太一衛門はその後、慶応2年(1866年)7月1日、武蔵国川越藩を経て江戸佃島にて獄死している。また、この時、太一衛門の同族である久慈郡金村の義民 河野辺儀之介利義、四郎次盛義も天狗党の与党として捕えられ、江戸佃島にて獄死。死後、三名は靖国神社に合祀された。
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