川野辺氏とはとは? わかりやすく解説

川野辺氏とは

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/12 04:28 UTC 版)

川野辺氏」の記事における「川野辺氏とは」の解説

川野辺氏関東豪族常陸国那珂郡から久慈郡にかけて勢力持った武家である。本姓藤原氏家系藤原北家川辺左大臣藤原魚名流れ汲み平将門征伐し鎮守府将軍藤原秀郷末裔にあたる那珂氏の一門常陸守護代として水戸一帯に勢力張った江戸氏佐竹氏宿老輩出した川井氏、さらに平沢氏、戸村氏などは川野辺氏同族である。家紋十六一の字丸に三つ巴丸に片喰丸に日の丸扇。 川野辺氏常陸国北部(常陸大宮市野口平字御城)を中心に勢力有した。その祖先訪ねれば正暦2年991年藤原秀郷の子孫、藤原通直が兄藤原通延(太田郷地頭とともに常陸国移り寛治4年頃(1090年頃)、通直がはじめてこの地(川野辺郷)に野口城築城し、川辺大夫名乗ったという。川野辺氏成立するのは通直から四代那珂通泰の次男那珂資明が川野辺称したことにはじまる。 『御前山村郷土史によればこの野口城その昔川野辺郷に造られたことから川野辺城ともいい、東西150間、南北50間ほどの規模有した西北に空濠が巡らされ、一の堀、二の堀を構え、東に馬場があり、南に三二七米、四方平垣囲い士卒で敵の来襲備えたという。築城通直嫡男那珂通資が川野辺大夫名乗り城を継承した。その嫡男は通重は那珂彦次郎または川野辺彦次郎とも名乗り那珂川野辺名字併用していたと見られるその子那珂通兼に二子あり、嫡男 通泰が那珂城に移り那珂姓を継承次男の資明が川野辺氏となり、川野辺城及び出丸監守した。 建武2年1335年)に足利尊氏後醍醐天皇対立し南北朝時代突入すると、川野辺資鎮、次郎親子南朝方として兵を起こし北朝方の常陸守佐竹貞義を甕ノ原で打ち破ったその後北畠顕家にしたがって京都上り、その地で足利尊氏戦った。これらの功績により後醍醐天皇より「菊の御紋」を拝領したが、菊紋そのまま使用することは憚れることから、十六一の字改めて家の名誉としたとされる

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