川鉄千葉時代とは? わかりやすく解説

川鉄千葉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:51 UTC 版)

増田明美」の記事における「川鉄千葉時代」の解説

増田進路めぐっては、資生堂ダイエーなどからも誘いがあったが、高校時代練習環境大きく変わらないことを理由に、新たに陸上部創設し瀧田増田樋口受け入れると申し出た地元川崎製鉄千葉(現・JFE千葉)に進んだ。このほか、瀬古利彦の師である中村清増田興味示し瀧田に「増田を(中村監督務めていた)早稲田大学入学させてくれないか」と持ちかける断られた、という話も伝えられている。増田自身中村からのスカウトについてこれまでコメントしたことはないが、大学進学しなかった理由として「当時大学陸上部は(女子の)指導者選手とも実業団先行している場はない」と考えたからだと著書記している。 社会人になって最初のレースとなった1982年5月2日兵庫リレーカーニバル10000mでは自己記録更新する3248秒1の日本新記録優勝。しかし、一週間後のスポニチ国際陸上5000mではラスト1周で佐々木七恵抜かれ長距離転向初め日本選手敗れる。さらに、マラソン記録同年6月6日に再び佐々木更新された。6月下旬から7月にかけてノルウェー遠征しビスレットゲームズ5000mオスロハーフマラソン出場前者では11位ながら15分3829日本新記録を樹立後者女子マラソン第一人者だったグレテ・ワイツをはじめベノイト、イングリッド・クリスチャンセンといったランナー集う中、ワイツ、ベノイトに次ぐ3位入賞する(クリスチャンセンは4位)。この結果から「自分過大評価した」「関係者オリンピックの成績期待し、それが本番直前プレッシャーになった」と増田引退後語っている。 この頃貧血再発し練習後は1時間以上休養してからでないと帰宅できない状態になったその背景には減量レバーほうれん草が苦手で食べられないといった事情があったが、病院に行く練習できなくなる不安から、瀧田貧血明かさなかったという。こうした状況1983年1月23日には、第1回全国都道府県対抗女子駅伝千葉県チーム一員として参加優勝チームアンカーとして記念すべき最初ゴールテープを切る。しかし、その1週間後の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)では14.7km地点貧血のため意識失って昏倒無念途中棄権となった過度練習緊張、そして減量し過ぎによる栄養失調原因だった。大阪警察病院収容されベッドで「これでもう陸上止めよう」と考えていた時、病院の外から「増田負けるなよ!」と励ます声が聞こえ思い直したという。 その後宗兄弟宗茂・猛)の所属する旭化成陸上部との合同合宿参加しマラソン楽しさ教えられる1983年6月札幌タイムス20キロロードにオープン参加の形でレース復帰し優勝者よりも早いタイムゴールした7月には前年続いて北欧遠征し7月6日にはヘルシンキワールドゲームズ3000mで4位ながら自己記録更新する9分1195日本新記録を出すなど復調ぶりを見せた9月11日にアメリカ・オレゴン州のマラソンで 2時間30分30秒日本最高記録当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立した。この記録当時世界歴代8位・年間ランキング8位に相当し日本選手として初め歴代ベスト10に入るものであった翌年ロサンゼルス五輪女子マラソン代表をかけて、11月東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障欠場佐々木七恵優勝して代表を獲得)。1984年1月前回リタイアした大阪女子マラソン出場する。ここでは前年一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツカトリン・ドーレゴール手前の40.9km地点逆転を許す。しかし、2時間32分台の好タイム2位となり、佐々木次いでロス五輪女子マラソン代表の座をつかんだ2月横浜国際女子駅伝日本チーム一員として出場後、オリンピック本番向けたトレーニング入った真夏ロサンゼルスおこなわれるマラソン高温予想されたことから、「暑さ慣れるため」という理由男子マラソン代表の宗兄弟合同ニューカレドニア宮古島沖縄などで合宿実施した。しかし暑さ体調崩し合宿終盤にはタイムトライアル地元高校生敗れて完全に自信失った周囲からの「がんばって」という言葉すら苦痛感じるようになり、7月5日川崎製鉄主催による最後壮行会無断欠席し、「失踪」と報じられる騒ぎになった。のちになって、このとき適応障害起こしていたと振り返っている。 臨んだ8月ロス五輪女子マラソン本番では序盤から積極果敢に飛び出したものの、ほどなくして後退し優勝メダル争い集団吸収される。しかしその後集団からも脱落し、「集団の中で走っていない」「同じ日本代表佐々木七恵にも先行された」ことなどに耐えられず、16km付近で再び途中棄権となってしまった(なお佐々木完走する19位に終わり二人共メダル・8位入賞はならなかった)。レース後の取材対し増田は涙を流しながら「ずっと胸痛くて呼吸苦しくて…」等と返答する様子新聞報じられていた。また同レースゴール直前夢遊病者のように意識朦朧と成りながらも競技場大声援の中完走したスイスガブリエラ・アンデルセンの姿を救護室テレビで見て、「ああまでして走る選手がいるのに自分ゴールできなかった。なんて弱い人間なんだ」と思った後年述べている。このオリンピック途中棄権増田にとって大きなダメージとなり、陸上への熱意失ったことから、同年秋には「引退会見」を開いて川崎製鉄退社。いったん陸上競技離れた

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