川鉄千葉時代
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増田の進路をめぐっては、資生堂やダイエーなどからも誘いがあったが、高校時代と練習環境が大きく変わらないことを理由に、新たに陸上部を創設して瀧田と増田・樋口を受け入れると申し出た地元の川崎製鉄千葉(現・JFE千葉)に進んだ。このほか、瀬古利彦の師である中村清が増田に興味を示し、瀧田に「増田を(中村が監督を務めていた)早稲田大学に入学させてくれないか」と持ちかけるも断られた、という話も伝えられている。増田自身は中村からのスカウトについてこれまでコメントしたことはないが、大学に進学しなかった理由として「当時大学の陸上部は(女子の)指導者・選手とも実業団に先行している場はない」と考えたからだと著書で記している。 社会人になって最初のレースとなった、1982年5月2日の兵庫リレーカーニバル10000mでは自己記録を更新する32分48秒1の日本新記録で優勝。しかし、一週間後のスポニチ国際陸上5000mではラスト1周で佐々木七恵に抜かれ、長距離転向後初めて日本選手に敗れる。さらに、マラソンの記録も同年6月6日に再び佐々木に更新された。6月下旬から7月にかけてノルウェーに遠征し、ビスレットゲームズの5000mとオスロのハーフマラソンに出場。前者では11位ながら15分38秒29の日本新記録を樹立。後者は女子マラソンの第一人者だったグレテ・ワイツをはじめベノイト、イングリッド・クリスチャンセンといったランナーが集う中、ワイツ、ベノイトに次ぐ3位に入賞する(クリスチャンセンは4位)。この結果から「自分を過大評価した」「関係者がオリンピックの成績に期待し、それが本番直前にプレッシャーになった」と増田は引退後に語っている。 この頃、貧血が再発し、練習後は1時間以上休養してからでないと帰宅できない状態になった。その背景には減量やレバーやほうれん草が苦手で食べられないといった事情があったが、病院に行くと練習できなくなる不安から、瀧田に貧血を明かさなかったという。こうした状況で1983年1月23日には、第1回の全国都道府県対抗女子駅伝に千葉県チームの一員として参加、優勝チームのアンカーとして記念すべき最初のゴールテープを切る。しかし、その1週間後の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)では14.7km地点で貧血のため意識を失って昏倒、無念の途中棄権となった。過度の練習と緊張、そして減量し過ぎによる栄養失調が原因だった。大阪警察病院に収容され、ベッドで「これでもう陸上は止めよう」と考えていた時、病院の外から「増田、負けるなよ!」と励ます声が聞こえ、思い直したという。 その後、宗兄弟(宗茂・猛)の所属する旭化成陸上部との合同合宿に参加し、マラソンの楽しさを教えられる。1983年6月の札幌タイムス20キロロードにオープン参加の形でレースに復帰し、優勝者よりも早いタイムでゴールした。7月には前年に続いて北欧に遠征し、7月6日にはヘルシンキのワールドゲームズ3000mで4位ながら自己記録を更新する9分11秒95の日本新記録を出すなど復調ぶりを見せた。9月11日にアメリカ・オレゴン州のマラソンで 2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立した。この記録は当時の世界歴代8位・年間ランキング8位に相当し、日本選手として初めて歴代ベスト10に入るものであった。 翌年のロサンゼルス五輪女子マラソン代表をかけて、11月の東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木七恵が優勝して代表を獲得)。1984年1月、前回リタイアした大阪女子マラソンに出場する。ここでは前年と一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツのカトリン・ドーレにゴール手前の40.9km地点で逆転を許す。しかし、2時間32分台の好タイムで2位となり、佐々木に次いでロス五輪女子マラソン代表の座をつかんだ。 2月の横浜国際女子駅伝に日本チームの一員として出場後、オリンピック本番に向けたトレーニングに入った。真夏のロサンゼルスでおこなわれるマラソンは高温が予想されたことから、「暑さに慣れるため」という理由で男子マラソン代表の宗兄弟と合同でニューカレドニアや宮古島、沖縄などで合宿を実施した。しかし暑さで体調を崩し、合宿終盤にはタイムトライアルで地元の高校生に敗れて完全に自信を失った。周囲からの「がんばって」という言葉すら苦痛に感じるようになり、7月5日の川崎製鉄主催による最後の壮行会を無断欠席し、「失踪」と報じられる騒ぎになった。のちになって、このとき適応障害を起こしていたと振り返っている。 臨んだ8月のロス五輪女子マラソン本番では序盤から積極果敢に飛び出したものの、ほどなくして後退し優勝・メダル争いの集団に吸収される。しかしその後集団からも脱落し、「集団の中で走っていない」「同じ日本代表の佐々木七恵にも先行された」ことなどに耐えられず、16km付近で再び途中棄権となってしまった(なお佐々木は完走するも19位に終わり、二人共にメダル・8位入賞はならなかった)。レース後の取材に対し、増田は涙を流しながら「ずっと胸が痛くて呼吸が苦しくて…」等と返答する様子が新聞に報じられていた。また同レースでゴール直前、夢遊病者のように意識朦朧と成りながらも競技場の大声援の中完走した、スイスのガブリエラ・アンデルセンの姿を救護室のテレビで見て、「ああまでして走る選手がいるのに自分はゴールできなかった。なんて弱い人間なんだ」と思ったと後年述べている。このオリンピックの途中棄権は増田にとって大きなダメージとなり、陸上への熱意を失ったことから、同年秋には「引退会見」を開いて川崎製鉄を退社。いったん陸上競技を離れた。
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