南朝梁・陳(502-589)
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「貴族 (中国)」の記事における「南朝梁・陳(502-589)」の解説
南朝梁の武帝は貴族的な教養を身につけた一流の文化人でもあり、即位初年以来、官制改革に並々ならぬ意を用いた。 508年(天監7年)には官制に対して大幅な再編を行った。まずそれまでの九品のうち、おおよそ七品以下の官職(門地二品が就くことのない役職)を流外官として切り捨て、それまでの六品以上を十八班に分ける(品とは逆に十八が最高で一が最低)。十八班はそれぞれ、十八班が正一品・十七班が従一品・十六班が正二品に対応し、ここまでが旧来の一品に相当する。以下、これと同じように対応していき、三班が従八品・二班が正九品・一班が従九品に対応し、旧来の六品に対応する。 この流内十八班・流外七班の制度は九品制度の中で六品と七品以下との隔絶という実態と制度を合致させ、貴族と寒門との間の区別をはっきりとさせるためのものであった。また班内の官職においても清官と濁官の区別がはっきりとされている。 武帝は侯景の起こした叛乱により餓死に追い込まれ、南朝梁の繁栄は一朝に消えた。内乱状態の中で朝廷の地方に対する統制力は衰え、それに代わってそれまでは見下されてきた在地の豪族たちが軍閥勢力として割拠するようになった。その軍閥たちをなだめすかしながら陳霸先が南朝陳を建て、内乱は一応の収束を迎えた。 貴族制も内乱の終息と共に再び形成されたが、貴族制の受けた打撃は大きかった。戦功を挙げた武将たちには官職を与えねばならず、それにより貴族の勢力が大きく減退したことなどが原因である。官職を得た武将たちはその官職を子孫に受け継がせたいと望むようになるが、従来の門地による官職決定ではそれは叶わない。朝廷はこれに対する懐柔策として、高位官僚の子を官僚として登用する任子制を採るようになる。 南朝陳は北周および隋の強い圧迫を受け、589年に滅ぼされたが、六朝貴族制の精華といえる南朝陳の貴族制は隋・唐に大きな影響を及ぼすことになった。その一方で、南朝梁から陳にかけては商業活動の活発化が目覚ましい時期であり、これらにより財を蓄えた新興商人・地主層の官界への進出が目立つようになった。これら新興商人・地主層は後代の科挙官僚の主な供給源であり、貴族制崩壊への第一歩であった。
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