南朝梁・陳とは? わかりやすく解説

南朝梁・陳(502-589)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)

貴族 (中国)」の記事における「南朝梁・陳(502-589)」の解説

南朝梁武帝貴族的な教養を身につけた一流文化人でもあり、即位初年以来官制改革並々ならぬ意を用いた508年天監7年)には官制に対して大幅な再編行った。まずそれまで九品のうち、おおよそ七品以下の官職門地二品が就くことのない役職)を流外官として切り捨てそれまでの六品以上を十八班に分ける(品とは逆に十八が最高で一が最低)。十八班はそれぞれ十八班が正一品十七班が従一品十六班が正二品対応しここまで旧来の一品相当する。以下、これと同じよう対応していき、三班が従八品・二班が正九品一班が従九品対応し旧来の六品に対応する。 この流内十八班・流外七班の制度九品制度の中で六品と七品以下との隔絶という実態制度合致させ、貴族と寒門との間の区別をはっきりとさせるためのものであった。また班内の官職においても清官と濁官の区別がはっきりとされている。 武帝侯景起こした叛乱により餓死追い込まれ南朝梁繁栄一朝消えた内乱状態の中で朝廷地方対す統制力衰え、それに代わってそれまで見下されてきた在地豪族たちが軍閥勢力として割拠するようになった。その軍閥たちをなだめすかしながら陳霸先南朝陳を建て、内乱は一応の収束迎えた貴族制内乱終息と共に再び形成されたが、貴族制受けた打撃大きかった戦功挙げた武将たちには官職与えねばならず、それにより貴族勢力大きく減退したことなどが原因である。官職得た武将たちはその官職子孫に受け継がせたいと望むようになるが、従来門地による官職決定ではそれは叶わない朝廷はこれに対す懐柔策として、高位官僚の子官僚として登用する任子制を採るようになる南朝陳は北周および隋の強い圧迫を受け、589年滅ぼされたが、六朝貴族制精華といえる南朝陳の貴族制隋・唐大きな影響を及ぼすことになった。その一方で南朝梁から陳にかけては商業活動活発化目覚ましい時期であり、これらにより財を蓄えた新興商人・地主層の官界への進出が目立つようになった。これら新興商人・地主層は後代科挙官僚主な供給源であり、貴族制崩壊へ第一歩であった

※この「南朝梁・陳(502-589)」の解説は、「貴族 (中国)」の解説の一部です。
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