初代萬屋仁兵衛(八代目玉屋庄兵衛)
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「萬屋仁兵衛」の記事における「初代萬屋仁兵衛(八代目玉屋庄兵衛)」の解説
本名は高科正夫(昭和25年(1950年)1月22日)-平成7年(1995年)8月23日)。 昭和25年(1950年)愛知県東春日井群坂下町に七代目玉屋庄兵衛(たまやしょうべい)本名は高科正守(大正12年(1923年)- 昭和63年(1988年)5月18日)の長男として生まれる。 からくり人形師「玉屋庄兵衛」は享保18年(1733年)から名古屋で続く名門として知られる。名古屋市昭和区御器所にて工房を営む。 昭和50年(1975年)25歳の時に七代目に弟子入り。 昭和63年(1988年)に八代目を継ぎ、山車からくり人形の制作や茶運び人形など座敷人形新調に加えて、コンピューター制御を導入したモニュメントを多数制作。 国内外で多数の個展、作品展を開催するなど、全国有数のからくり人形師として活躍した。 平成7年(1995年)3月に玉屋庄兵衛の屋号は弟へ譲り、人形細工師の隅田仁兵衛から「仁兵衛」の名前をもらいうけ、新しい作品をなんでも創る萬屋(よろずや)と名付ける。萬屋襲名に伴い、出生地である春日井市坂下町へ工房を移転する。同年、初代襲名半年後に肝臓がんのため病没。岐阜県高山市に所在する地中ドーム博物館である飛騨高山まつりの森にて、常設祭屋台「金時台」に搭載するコンピューター操作からくり人形及び体験用糸からくり人形制作中に逝去したため、一番弟子の萬屋仁兵衛文造が引継ぎ制作。
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