初代中華民国副総統・総統代理
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「李宗仁」の記事における「初代中華民国副総統・総統代理」の解説
日中戦争勝利後、李宗仁は軍事委員会委員長北平行営主任(1946年9月、国民政府主席北平行轅主任に改組)に任じられ、共産党との戦いを開始する。1948年、中華民国副総統選挙に出馬し、白崇禧らの支持を得た李宗仁は蔣介石が推す孫科を破って副総統に当選した。 1949年1月、蔣介石が国共内戦不利の責任をとって総統を辞任すると、李宗仁が総統代理に就任し、共産党との和平交渉を開始する。同年4月1日、張治中を代表とする共産党との和平交渉団を首都の南京から北平(北京)に派遣して北平和談(中国語版)を行い、交渉団が最終案である国内和平協定(中国語版)を持ち帰ってきた。しかし、国民党は4月20日に和平協定への調印拒否を決定し、共産党に調印拒否を通告する電報を送ったために交渉は決裂した。その結果、3日後の4月23日には交渉決裂を受けて起きた渡江戦役で人民解放軍によって中華民国の首都南京は陥落して南京の総統府も占領されてしまった。 1949年10月に内戦も毛沢東の中華人民共和国が成立する結末を迎える。11月、李宗仁は香港へ逃亡し、さらに12月にはアメリカ合衆国へ亡命してしまった。李宗仁は当時のアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに台湾に逃れた蔣介石の打倒を訴えて台湾をアメリカ合衆国51番目の州にすることも提案した。 一方、李宗仁の逃亡によって空席となった総統代行には憲法49条の規定に基づいて行政院長の閻錫山が就任し、国民党とともに台湾へ渡った蔣介石が1950年3月1日に総統への復任を宣言するまで在職した。そして、1954年3月の総統選挙に際して、台湾に帰国しない李宗仁を国民大会で副総統から解任した。
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