初代作右衛門とは? わかりやすく解説

初代作右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:51 UTC 版)

高木作右衛門」の記事における「初代作右衛門」の解説

初代高木作右衛門忠雄当初勘右衛門名乗っていた。代々肥前国高木荘に住んでいたが、長崎開港した永禄から元亀年間頃に父・弾正忠康宗とともに長崎移住する同地頭人呼ばれる町の中心役割を果たす人物の1人となり、朱印船貿易で財をなした。文禄元年1592年)に豊臣秀吉により頭人町年寄改称され以後長崎町政を担うこととなる。 慶長12年1607年)に駿府出頭し長崎奉行小笠原一庵の不正を証言して小笠原失脚させた。 当初キリシタンであったが、寛永3年1626年)にキリシタン禁令出された際には、町年寄町田宗賀ジョアン後藤宗印トメ棄教拒み長崎の町を出たのとは逆に仏教改宗し同様にキリシタンから改宗した長崎代官末次平蔵と共にキリシタン弾圧行なった寛永5年1628年5月作右衛門送り出した朱印船シャム湾フィリピン総督ドン・ファン・デ・アルカラーソ率いスペイン艦隊によって焼打ちにされ、朱印状奪われた上、船員57人がマニラ連行されという事件(メナム河事件)が起きている。これを受け、将軍交付朱印状奪われるのを阻止するため、海外渡航する者は幕府老中奉書長崎まで携行し、それと引き替え長崎奉行通航許可書を発行するという奉書船制度定められた。 長崎出島江戸幕府の命を受け、長崎町人の請負造られた。その時25人の出資者出島町人呼び高木作右衛門その1人に名を連ねている。

※この「初代作右衛門」の解説は、「高木作右衛門」の解説の一部です。
「初代作右衛門」を含む「高木作右衛門」の記事については、「高木作右衛門」の概要を参照ください。

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