初代全日本監督に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:18 UTC 版)
1922年から始まった第1回全日本排球選手権大会(全日本選手権、男子のみ)で、バスケットボール選手が含まれていた横浜YMCAを破り優勝。この大会は、当時唯一の国際大会である極東選手権に出場する全日本チームを決定していたが、毎回他のチームを寄せ付けず、第6回(1923年)~第9回(1930年)極東選手権に全日本チームとしても参加(第9回も神戸高商を中心としたピックアップチーム)。この全ての大会で監督を務めた。第6回大会以前の全日本は、バスケットボール選手などが混ざるチームで、多田の率いた第6回大会の神戸高商が、初めてのバレーボール専門選手となるため、初代のバレーボール全日本(男子)監督となる。神戸高商は国内では無敵で1920年~1932年と呉水雷倶楽部(呉工廠排球チーム)に敗れるまで10年間にわたる黄金時代を続けて、第6回から極東選手権はほとんど神戸高商の選手で占められた。 この頃日本のバレーボールは、前衛の選手がわずかにジャンプする程度で、その他の選手は平凡なボールを相手方に打ち返すのみであったが、1923年に大阪で行われた第6回極東選手権に於いて惨敗はしたものの、多田は、フィリピン・中国の選手がネット付近で直上にトスしたボールを中衛が高くジャンプし、全身の力で打ち込むスマッシング(スパイク)が攻撃の奥義であると認識した。また指を使ったパスを自チームに取り入れる等、バレーボール技術の吸収に努め、次第に高度な技術や戦法をマスターしていった。神戸高商は国内では相手に1セットも落とすことはなく全日本9連覇通算10回優勝、多田は試合後に相手チームを指導する程のバレーボール黎明期最初の強豪チームを作り上げた。日本のバレーボールは神戸高商に源を発す。
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