廃城の時期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 15:14 UTC 版)
「川崎城 (下野国)」の記事における「廃城の時期について」の解説
川崎城の廃城について、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、時の城主塩谷義綱がこれに直接参陣しなかったため、あるいは、参陣した家臣の岡本正親が主君義綱の謀反を訴えたため、塩谷氏が改易となり廃城となった、とする説明が多く見られるが、これは、那須記などにある記述をそのまま採用した見解である。義綱は天正17年(1589年)6月29日に上洛して、豊臣氏に対して恭順の意を表しており、小田原征伐に当人が参陣しなかったのは史実であるが、正親を名代として兵は派遣している。 したがって、廃城の時期は、塩谷氏の系図の上で塩谷氏が改易となった「永禄4年(1595年)2月8日」であると考えられる。
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