廃城まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 02:55 UTC 版)
天正11年(1583年)より豊臣秀吉と毛利輝元との間の和睦の協議で高梁川を境界にそれ以西が毛利領となり、それより東は宇喜多秀家の領地となった(中国国分)。これにより岩屋城は宇喜多領となる事が決まり、中村頼宗は宇喜多側より城の引き渡しを求められたが、これを拒み籠城の構えを見せた。 天正12年(1584年)3月、宇喜多秀家は花房職之を大将に岡家利・長船貞親・戸川秀安・江原親次ら2万の大軍で岩屋城を攻囲したが、頼宗は堅守し武力によって陥落させることは出来なかった。しかし同年7月、頼宗が派遣した八島宗八が足利義昭に和睦を仲介を依頼した事によって宇喜多方が攻囲を解くと頼宗はついに安芸国へと退去した。これ以後、岩屋城は長船貞親が領することになる。 天正18年(1590年)に大規模な山火事が発生し、岩屋城本丸も焼け落ちた。山城は平時において時代遅れの物としてその必要性を失っており、これ以後再建されることもなく岩屋城はそのまま廃城となった。
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