廃城と幸岡氏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 20:24 UTC 版)
喜連川塩谷氏の塩谷朝行の子が、長禄元年(1457年)に幸賀太郎行縄と名乗り葛城城を築いて居城した頃には、幸岡城も廃城になっていたものと考えられている。この時、幸岡氏は断絶し、名跡だけが引き継がれたものか、それとも、行縄が幸岡氏の養子となり、その一族を引き受けたものかは不明だが、これ以降、幸岡氏は喜連川塩谷氏の家臣となった。なお、この行縄は、後に加藤氏を名乗ったが、幸岡氏(幸賀氏)の名跡は残り、16世紀には、塩谷惟朝の甥である勝吉が幸賀氏の後を継いでいる。
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