廃城後の山田城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 15:21 UTC 版)
廃城となった山田城の主郭にはのちに愛宕神社が奉られた。神社と言っても祠があったものであったが、現在は、近隣の神社に合祀され残っていない。新左衛門が討たれた場所は「新左衛門原」と呼ばれ、菊の前が11人の侍女とともに投身自害した場所は「十二御前」と呼ばれ、ともに字名として残っているが、これを供養していた集落が現在は廃村となってしまい、伝承を伝える人が少なくなってしまったため、地元の人でも、その場所や伝承を知る者は少ない。山田氏の菩提寺であった与楽山千手院円満寺は、明治の廃仏毀釈により廃寺となってしまったが、その跡は現在も残り墓地として使用され、その真ん中には、円満寺の住職と山田一族のものであろう墓が残っている。 また、江戸後期に中原寛斎によって書かれたと推定される「山田環往来記」は次のように記す。 西山に雷神を祀る祠あり。此所は往昔山田村と土屋村の領主山田筑後守辰業殿の居城跡なり。故に四方掻掲(そうけい)の濠ありて恰も(あたかも)築山の如し。濠は百尋雷零の井の如し。仍(より)て猪鹿等も近より難く、飛鳥も亦翔翺(しょうこう)し難き要害の地なり。時到りて鉄城も山野に変ず。山田筑後守辰業の一族は、天正の乱に基地居城を失ふて離散せしこそ残念なり。 *上記の天正の乱とは「薄葉ヶ原合戦」のことである。
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