廃墟からの出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/11 22:49 UTC 版)
1755年のリスボン地震が首都と周辺地域を荒廃させ、ペーナ修道院は廃墟と化した。しかし、ニコラウ・シャンテレネ作とみなされる大理石と雪花石膏でできた壮麗な祭壇背後の棚を備えた礼拝堂は、無傷であった。シントラの山頂に広がるこれらの残骸が、若いフェルナンドを驚愕させたのだった。1838年、カステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城、という意味。かつてのムーア人の城の廃墟)と他いくつかのキンタス(別邸)のすぐ隣である旧修道院をフェルナンドは手に入れ、周辺を全て囲いで囲んだ。 フェルナンドは、空想的な夢を持っていた。古い修道院を再建し、シントラ滞在時にポルトガル王家が滞在する夏の離宮となる新しい部分を付け加えるのだと。ロマン主義的な再建命令が、陸軍中将であり採掘技師でもあったヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・エシュヴェーケに下された。宮殿全体はほぼ、巨大な岩々の上に壮大に立つ。 フェルナンドは、異国風の豊富な種類の樹木を植えてイギリス式公園をつくることを考えていた。このようにすると、公園とペーナ宮は魅惑的な王子と王女が登場する本の世界のようになる。宮殿のとっぴな様式は、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城を見る者に思い起こさせる(ペーナ宮殿が建てられてから30年後に、このバイエルンの城は建設された)。この違う様式の模倣と組み合わせは成功したといえず、マヌエル様式の窓のとなりにムーア風の扉があるといった具合に、しばしば不思議なコントラストを描く。 宮殿自体は贅を尽くした様式で、一風変わった建築様式の大量な動的効果がある。違う様式の混合は、ゴシック・リヴァイヴァル建築様式、ネオ・マヌエル様式、ネオ・イスラム様式、ネオ・ルネサンス様式、その他様式の中で示されている。例えばベレンの塔のようにゆるぎないポルトガル建築を参照すれば、当時の人々の嗜好が全て国際的に共通していたとわかる(19世紀の人々は異国風でロマンティックなものを好んだため)。 最も変化のある姿をした別個の対の番兵小屋、新スペイン・アラビック様式のタイルで不揃いに飾られたテラスなどが、顕著な要素である。トリトンの有名な像は、数人の作家によると「世界の創造」を象徴しているという。
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