南方での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:53 UTC 版)
1943年(昭和18年)9月1日から12日まで、多摩は横須賀で修理・整備を実施した。当時、大本営は中部太平洋諸島(ポナペ島、トラック諸島)に日本陸軍兵力を増強することを検討しており、すでに陸軍第52師団および甲支隊の派遣準備をすすめていた。9月5日、古賀峯一連合艦隊司令長官はGF電令作第698号をもって空母隼鷹艦長長井満大佐を指揮官とする丁一号輸送部隊を編成し、甲支隊の輸送を下令した。丁一号輸送部隊(隼鷹、木曾、多摩、大波、谷風、粟田丸)のうち、軽巡2隻(多摩、木曾)は第一回次輸送を担任する。9月15日、多摩は部隊と物資の輸送のため宇品を出港、木曾も呉を出港し、合流して甲支隊の輸送に従事した。9月22日、カロリン諸島ポナペ島に到着した。トラック諸島に戻り、待機する。内地より空母隼鷹と駆逐艦谷風がトラック泊地に進出してきたので(24日着)輸送部隊を受け入れ、3隻(木曾、多摩、谷風)は26日にトラック泊地を出発する。27日にポナペ島で陸軍部隊を揚陸し、28日にトラック泊地に戻った。丁一号輸送部隊は27日のGF電令作第724号で編成を解かれた。 内地に帰投した各艦は、第17師団のトラック諸島とニューブリテン島ラバウルへの増援の輸送のために上海へ向かった。10月5日、連合艦隊は第十四戦隊司令官伊藤賢三少将を指揮官とする丁四号輸送部隊(那珂、五十鈴、木曾、多摩、粟田丸、日枝丸、野分、舞風、護国丸、清澄丸、山雲)を編成した。軽巡2隻(多摩、木曾)は、多摩艦長の指揮下で第一輸送を担当する。佐世保を出発した2隻(多摩、木曾)は10月11日に上海へ到着した。同地で陸兵976名と物件を搭載して翌日出発、18日にトラック泊地に到着した。ここで駆逐艦卯月が部隊にくわわり、3隻(多摩、木曾、卯月)は19日にトラック泊地を出発した。21日、ラバウル到着直前に木曾が空襲を受けて損傷し、多摩は先行してラバウルに進出した。木曾は駆逐艦2隻(卯月、五月雨〈ラバウルより救援〉)に護衛され、同日正午ラバウルに到着した。ラバウルで増員部隊を降ろした後、ガダルカナル島から発進したオーストラリア空軍ボーフォート爆撃機の攻撃を受けた。至近弾により外板に被害を受け、ラバウルで応急修理を受けた。10月23日、軽巡2隻(多摩、木曾)は丁四号輸送部隊からのぞかれた。同日、多摩はトラック泊地に戻った(木曾は30日トラック泊地帰投)。 10月27日多摩は横須賀へ帰港し、修理と改装を受けた。5番・7番砲、カタパルトとデリックを撤去し、12.7cm連装高角砲1基を装備、三連装4基・単装6基の96式25mm高角機銃を増備し、25mm機銃は全部で22挺(3連装4基、連装2基、単装6挺)となった。また、21号電探を装備した。修理と改装は12月9日に終わった。 12月24日に横須賀を出港し、26日大湊着、29日同地発、翌1944年(昭和19年)1月1日幌筵に進出した。1月15日に阿武隈と共に幌筵発、16日司令部が松輪島視察、18日室蘭着(司令部は29日まで千歳航空隊で図上演習に参加)、28日大湊に移動した。北方部隊は陸奥湾に終結し、以降訓練を実施した(6月中旬まで)。この間の5月8日から12日は室蘭を基地にして基地航空隊の雷撃訓練目標艦として行動した。6月14日大湊に寄港、19日大湊発、21日横須賀に帰港した。横須賀ではマリアナ沖海戦の戦訓による機銃の増備を30日まで実施した。 以後8月12日までに2度、小笠原諸島への陸軍の増援部隊の輸送を行った。6月25日に多摩・木曽・第11水雷戦隊などで伊号輸送部隊(連合艦隊直率)が編成され父島、硫黄島への緊急輸送を実施、多摩・木曽・長良などで第2輸送隊が編成され、30日出港、7月1日父島着、2日出港、3日横須賀に帰港し編成を解かれた。 以後は木曽と共に捷号作戦の発令を待ち、横須賀で待機を続ける8月10日に2度目の小笠原へに緊急輸送を行うことになり、横浜で部隊を乗せ、12日父島、14日母島に寄港、15日呉に帰投した。21日から27日まで呉海軍工廠で入渠した。 8月30日、多摩は第5艦隊第21戦隊から除かれ連合艦隊第11水雷戦隊に編入、同日桑から旗艦を引き継いだ。9月、10月は瀬戸内海にあった。10月17日レイテ沖海戦の出撃が決定、第11水雷戦隊旗艦は18日檜に移され、同日呉から集結地の八島沖に回航された。
※この「南方での活動」の解説は、「多摩 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「南方での活動」を含む「多摩 (軽巡洋艦)」の記事については、「多摩 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 南方での活動のページへのリンク