南方のペグー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 16:17 UTC 版)
建国当時、南方のペグー朝とは友好関係にあり、国境の策定も平和裏に行われた。しかし、ペグー朝でヤーザディリ王が即位した後、アヴァがペグー内のヤーザディリの政敵と結託したことが発端となって両国の間でイラワジ・デルタ地帯を舞台とする戦争が始まった。1407年にアヴァ王ミンカウンが妹をヤーザディリに嫁がせたときに一度は和平が成立するが、翌年にミンカウンがチェンマイと結んでペグーを攻撃しようとしていたことが発覚し、戦争は再開された。 ペグーとの戦争で特に活躍したのが、ミンカウンの王子ミンレチョースワ(1391年 - 1417年)である。戦争中に生母がヤーザディリに捕らわれて彼の側室とされたことを知ったミンレチョースワは激怒し、ペグーが支配する下ビルマとアヴァに反逆したアラカンを攻撃した。1415年にはミンレチョースワは下ビルマの西部を制圧し、ヤーザディリに残された都市はペグーとマルタバンだけであった。1417年にミンレチョースワは重傷を負ってヤーザディリの手に落ち、治療を拒否して息絶えた。ミンレチョースワの死によってアヴァの兵士は士気を下げ、ミンカウンも彼の死に落胆し、余生を信仰に奉げた。ミンレチョースワの死後戦闘は沈静化し、ミンカウンの死後に終戦を迎えた。 この戦争は11世紀にパガン朝の建国者アノーヤターによるモン族との抗争の続きとも言え、ビルマ史家のG.E.ハーヴェイは民族移動の戦争と考察した。
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