南方へ出征
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1944年(昭和19年)の春、加藤道夫は処女戯曲「なよたけ」(5幕9場)を脱稿。この頃、川口一郎と知り合った。この年、陸軍省通訳官として南方へ出征。マニラ、ハルマヘラ島を経て、東部ニューギニアに赴任した。ソロンという部落で終戦まで過ごすが、その地でマラリアと栄養失調により死線をさまよった加藤は、陰鬱なジャングルの野戦病院の掘立小屋の片隅で、烈しい熱病に憔悴し身を横たえていた。 死の誘いは既に間近にあった。死ぬなどと云うことは至極簡単なことの様に思われた。唯、ちょっと気をゆるめればいい。精神が生への意志を放棄しさえすれば、それだけで何の苦もなく死ねる、と云うことだけは僕は確信していた。事実、死ぬということ程造作のないことはなかった。毎日、何十人という人間達が、まるで自らすすんでそうするかのように、ころッころッと死んで行った。重病人達は寧ろそうなることを望んでいるのだ。……ああ、それに、あの雨、三ヶ月も四ヶ月も絶え間なく降りつづく雨、雨。……身も心も腐りきってしまう様なあのニューギニアの雨期。……唯肉体だけを生きると云うことは耐えられぬ倦怠以外の何物でもなかった。絶望と死の影があたりを蔽いつくしていた。僕は目前に死と向い合っていた。死に対する恐怖は殆んどなかった。此処では人々は人間社会の因習から遥かに遠く隔たっていた。肉親から、家庭から、あらゆる社会の羈絆から。 — 加藤道夫「死について」 1945年(昭和20年)8月の終戦と共に、終戦事務・戦犯通訳の仕事に従事した加藤は、その間に徐々に体力を回復していった。
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