加藤道夫
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加藤 道夫(かとう みちお、1918年(大正7年)10月17日 - 1953年(昭和28年)12月22日)は、日本の劇作家。代表作『なよたけ』が高い評価を受け[1]、カミュやミュッセの翻訳、ジャン・ジロドゥ研究や演劇評論などでも知られる[2]。芥川比呂志や三島由紀夫、矢代静一らと共に、岸田国士が発足した文学立体化運動「雲の会」の同人としても活躍したが、最後は自宅書斎で縊死自殺した[2][3]。妻は女優の加藤治子。姪は作家の加藤幸子[4]。
注釈
- ^ 『加藤道夫全集 第一巻』(青土社、1983年)の月報に収録されている「加藤道夫君」という短文において堀田善衛は、ソロンは西にあるので西部ニューギニアの間違いではないかと指摘している。
- ^ 『現代日本文學大系92 現代名作集(二)』(筑摩書房、1973年)に収録の今村忠純編による加藤道夫の年譜によれば、『蝿』の掲載誌は『展望』となっている。
- ^ 他の発足会員には、阿部知二、伊賀山昌三、石川淳、市原豊太、井伏鱒二、臼井吉見、内村直也、梅田晴夫、大木直太郎、岡鹿之助、加藤周一、河上徹太郎、川口一郎、河盛好蔵、木下恵介、木下順二、倉橋健、小山祐士、今日出海、坂口安吾、阪中正夫、佐藤敬、佐藤美子、清水崑、神西清、菅原卓、杉村春子、杉山誠、鈴木力衛、千田是也、高見澤潤子、高見順、武田泰淳、田中澄江、田中千禾夫、田村秋子、津村秀夫、戸板康二、永井龍男、長岡輝子、中島健蔵、中田耕治、中野好夫、中村真一郎、中村光夫、野上彰、原千代海、久板栄二郎、堀江史朗、前田純敬、宮崎嶺雄、三好達治、山本健吉、山本修二、吉田健一がいた[3]。
出典
- ^ a b 鈴木晴夫「加藤道夫」(旧事典 1976, p. 88)
- ^ a b 平敷尚子「加藤道夫」(事典 2000, pp. 474–475)
- ^ a b c d 「第九章 その『雲の会』」(矢代 1985, pp. 131–145)
- ^ a b c d e f 「第四章 その雌伏時代」(矢代 1985, pp. 51–65)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 年譜 1983, p. 622.
- ^ a b c d 「第一章 その戦争」(矢代 1985, pp. 20–35)
- ^ 年譜 1983, p. 622-623.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 年譜 1983, p. 623.
- ^ 年譜 1955, p. 889.
- ^ a b 年譜 1955, p. 890.
- ^ a b 加藤道夫「死について」(三田文学 1948年6月号)。矢代 1985, pp. 20–21
- ^ a b 「第三章 その出会い」(矢代 1985, pp. 36–50)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 年譜 1983, p. 624.
- ^ a b 「第五章 その初上演」(矢代 1985, pp. 66–81)
- ^ a b c d e 「第八章 その研究所」(矢代 1985, pp. 115–130)
- ^ 加藤道夫「新劇への不信」。矢代 1985, p. 125
- ^ a b c d 「第六章 その初演出」(矢代 1985, pp. 82–98)
- ^ 『児童文学事典』電子版 - 日本児童文学学会、千葉大学アカデミック・リンク・センター(2020年10月10日閲覧)
- ^ 年譜 1983, p. 624-625.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 年譜 1983, p. 625.
- ^ a b c d e f g h i 「第十章 その病い」(矢代 1985, pp. 146–163)
- ^ a b 加藤道夫「芥川比呂志への書簡」(昭和25年11月30日付)。矢代 1985, p. 147
- ^ a b c d e f g h i j k 「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271–323
- ^ 年譜 1983, p. 625-626.
- ^ a b c d e f g h i j 年譜 1983, p. 626.
- ^ a b c d e f g h i j k l 「第十二章 その傷心」(矢代 1985, pp. 179–194)
- ^ a b c d e f 「第十三章 その神」(矢代 1985, pp. 195–210)
- ^ a b c d e f g h i j k l 「第十四章 その鎮魂」(矢代 1985, pp. 211–228)
- ^ a b c 「第一章 その死」(矢代 1985, pp. 9–19)
- ^ a b 加藤道夫「午年の作家の感想」(1953年12月)。矢代 1985, pp. 13–14に抜粋掲載
- ^ a b c 「加藤道夫氏のこと」(毎日マンスリー 1955年9月号)。芸術断想 1995, pp. 226–228、28巻 2003, pp. 535–537
- ^ 「楽屋で書かれた演劇論――理想の劇場は死んだ」(芸術新潮 1957年1月号)。芸術断想 1995, pp. 229–233、29巻 2003, pp. 417–420
- ^ 福永武彦「序」(『福永武彦全集第3巻・小説3』新潮社、1987年10月)
- ^ a b 岸田国士「加藤道夫の死」(文藝 1954年2月号)。矢代 1985, pp. 222–223
加藤道夫
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劇作家。芥川比呂志同様、共に「雲の会」の同人で劇作家仲間として親交があった。三島は加藤を、〈純にして純なる、珠のごとき人柄〉のゆえに自作の不評に傷つきやすく〈大劇作家たらしめなかつた〉のではないか、〈加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない〉と語り、腐敗した劇檀人種の中で〈心やさしい詩人は、「理想の劇場の存在する国」へと旅立つた〉と加藤の自殺を追悼した。加藤の死から間もない頃、矢代静一と奥野健男は、三島から「僕のペンネームは魅死魔幽鬼尾にしたよ」と勘亭流で書かれたメモの字を見せられたされる。
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