上杉氏定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/01 15:03 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動|
|
|
|---|---|
| 時代 | 室町時代前期 |
| 生誕 | 文中3年/応安7年(1374年) |
| 死没 | 応永23年10月8日(1416年10月28日) |
| 改名 | 鶴寿丸(幼名)→氏定 |
| 官位 | 弾正少弼 |
| 幕府 | 室町幕府 |
| 主君 | 足利氏満→満兼→持氏 |
| 氏族 | 小山田上杉家→扇谷上杉家 |
| 父母 | 父:上杉頼顕、養父:上杉顕定 |
| 兄弟 | 氏定、定重 |
| 子 | 持定、持朝、今川範政室 |
上杉 氏定(うえすぎ うじさだ)は、室町時代前期の武士。扇谷上杉家当主。
略歴
小山田上杉家の上杉頼顕の子として誕生。諱の「氏」は鎌倉公方・足利氏満より賜ったものと考えられる。
父の兄弟である上杉顕定の養子となり後を継ぎ、鎌倉公方足利氏満・満兼・持氏の三代にわたって仕えた。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発した際、氏定は当初劣勢であった持氏方に合力するため出陣したが、上杉氏憲(禅秀)の反乱軍に敗れ重傷を負い、後に持氏らが鎌倉を退去する際は同道できずに同年10月8日、藤沢道場において自刃した。
家督は嫡男・持定が継承したがまもなく没し、次男・持朝がその後を継いだ。なお、江戸時代中期の第4代米沢藩主・上杉綱憲は、今川氏に嫁いだ氏定の娘の末裔に当たる(氏定 - 今川範政室 - 範忠 - 義忠 - 氏親 - 義元 - 氏真 - 範以 - 吉良義弥室 - 義冬 - 義央 - 上杉綱憲)。
|
||||||||||
固有名詞の分類
- 上杉氏定のページへのリンク