米沢上杉家の相続とは? わかりやすく解説

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米沢上杉家の相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:24 UTC 版)

上杉綱憲」の記事における「米沢上杉家の相続」の解説

高家肝煎吉良義央長男として誕生する幼名三之助。母は上杉綱勝の妹で、義央の正室・富子。寛文4年1664年)閏5月10日に、米沢藩3代藩主伯父の上綱勝が嗣子の無いままに急死した米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを、綱勝の岳父であった陸奥国会津藩主・保科正之計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの三之助末期養子とすることで存続許された。義央は扇谷上杉家の上杉氏定の血を引いている。「会津松平家譜」によると、幕閣では綱勝の後継者保科正之の子の正純を据えることも検討されていたが、正之が謝絶したとされている。 三之助上杉喜平次景倫(かげのり/かげとも)と改名し6月5日正式に上杉家当主となった時に2歳竹俣義秀中条知資らの補佐を受ける。 末期養子による相続代償として、信夫郡伊達郡削られ藩領置賜郡のみとなり、30万石所領15万石半減された。このため米沢藩恒常的な財政逼迫悩まされることになった7月11日幼少藩主喜平次に代わって家臣謝礼のため、4代将軍徳川家綱御前出て綱勝の遺品左吉貞の脇差及び徽宗筆の書の掛幅献上した寛文8年1668年8月25日喜平自身初め将軍御目見する。延宝3年1675年11月23日将軍家綱の御前元服し養父同様、家綱偏諱をうけて綱憲と改名し従四位下侍弾正大弼叙任した。義父の綱勝と同名となることを避けるため、諱の下の字(2文字目)には、曽祖父景勝祖父定勝伯父の綱勝と3代亘って通字化していた「勝」の字ではなく、かつての上杉氏通字であった「憲」の字を使用した。綱憲以降現在に至るまでこの字を使用する当主多くみられる。「勝」の字は四男・勝周を祖とする新田上杉氏へと継承された。 上杉家では延宝2年1674年4月に綱憲の傅役である竹俣充綱が上杉家の家史編纂進言し、延宝5年1677年4月には正式に着手され元禄9年1696年5月には「謙信御年譜」が、元禄16年8月には「景勝御年譜」が完成した延宝6年1678年)、徳川御三家一つである紀州藩主徳川光貞の娘である栄姫を妻に迎える。正室の縁により、徳川綱教義兄徳川頼職徳川吉宗義弟となった延宝7年1679年4月21日初め封地米沢入部許される天和元年1681年4月19日、新将軍徳川綱吉ら行光の刀を賜う元禄2年1689年11月実家吉良家後継者がいなくなっていたことから、次男の春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。こうした3重の縁により、吉良家上杉家の関係は親密なものとなった吉良家普請買掛金上杉家負担するのが恒例となった他にも、毎年6,000石の財政援助吉良家に対して行われた。この負担大きさに、上杉家江戸勘定方須田右近は、米沢重臣宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いている。

※この「米沢上杉家の相続」の解説は、「上杉綱憲」の解説の一部です。
「米沢上杉家の相続」を含む「上杉綱憲」の記事については、「上杉綱憲」の概要を参照ください。

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