阿蘇氏当主の相次ぐ死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/25 06:06 UTC 版)
阿蘇氏は肥後の阿蘇郡を支配する大宮司で、いわゆる神主大名であった。戦国時代には大友氏、菊池氏など周辺諸国の干渉を受けながらも、その都度、時勢を見て離合集散を繰り返して独立を維持してきた。しかし、天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗し、肥後に島津氏の勢力が拡大した。島津氏は名和氏、城氏、天草五人衆らを従属させる一方、大友氏に同調していた阿蘇氏との合戦を開始する。 島津氏はまず天正8年(1580年)、宇土半島にある阿蘇氏の家臣・中村惟冬の矢崎城及び惟冬の弟・中村二大夫の綱田城を攻めた。惟冬は城より打って出て城兵共々討ち死に、二大夫はその翌日に降伏し開城した。翌天正9年(1581年)になると、島津氏に従属した相良氏の八代勢1,000余が、益城郡御船城主・甲斐親直(宗運)を攻めるべく進軍、堅志田城下を放火し出て来た城兵を退けた。これに対し、甲斐親直の500余は、濃霧の響野原に陣を布く相良勢を奇襲、総大将の相良義陽、八代奉行・東左京進らを討ち取った。義陽と親直は相互不可侵を約していたのであるが、その相良氏による島津氏への防波堤が消滅、また合志氏が島津氏に降伏するなど肥後に於ける島津氏の影響力は肥大化する一方であった為、時の当主・阿蘇惟将は大友氏に代わって台頭してきた龍造寺氏に従属して島津氏に対抗する。 ところが、天正11年(1583年)に惟将が死去すると大宮司は惟将の弟の阿蘇惟種が継いだがその惟種も相続してわずか1ヶ月で病没してしまい、遂には大宮司に惟種の子でわずか2歳の阿蘇惟光がなる有様だった。このため、幼少の惟光を甲斐親直が補佐する体制がとられたが天正12年(1584年)3月には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死し龍造寺氏は島津氏に屈服、龍造寺氏に従属していた隈部氏ら肥後国人も続々と島津氏に靡いていった。このため阿蘇氏は肥後で孤立状態となり、さらに9月には親直までもが死去(異説があり、親直は豊臣秀吉に反乱を起こして殺されたという説もある[要出典])したため、遂に10月には島津軍による阿蘇領への本格侵攻が開始されることとなった。
※この「阿蘇氏当主の相次ぐ死」の解説は、「阿蘇合戦」の解説の一部です。
「阿蘇氏当主の相次ぐ死」を含む「阿蘇合戦」の記事については、「阿蘇合戦」の概要を参照ください。
- 阿蘇氏当主の相次ぐ死のページへのリンク