阿蘇氏の反撃とは? わかりやすく解説

阿蘇氏の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/25 06:06 UTC 版)

阿蘇合戦」の記事における「阿蘇氏の反撃」の解説

島津軍新納忠元稲富新助大将任じ御船城攻めた御船城堅城というほどの城ではなかったが、親直の子甲斐親英反撃で落とすことができず、城の押さえ残して阿蘇氏居城岩尾城攻めた。が、わずか3歳幼主では対抗できるはずも無く惟光家臣に連れられて脱出してしまう。これにより阿蘇氏滅亡したが、なおもその旧臣島津軍侵攻抵抗した岩尾城北東位置する南郷城では、長野惟久が徹底抗戦し玉砕した長野惟久は甲斐氏と並ぶ阿蘇家重鎮で、南郷城阿蘇氏がかつて居城としていた(阿蘇氏はかつて南郷大宮司呼ばれていた時期がある)ため、周辺諸城動揺し長野城下田城島津軍侵攻陥落した。 そしてその長野城東南に、阿蘇家重臣高森惟直が守る高森城があった。惟直は島津軍調略拒絶し、さらに寡兵ありながら城外決戦及んだ討ち取られてしまった。その惟直の子高森惟居は父が討ち死にしたことを知ると、島津軍降伏する。だがこれは惟居の謀略で、密かに大友氏援軍要請をしていた惟居は、高森城休息していた島津軍突如として襲いかかったこのため油断しきっていた島津軍壊滅してしまう。このため大友軍と高森軍の反撃を受けることを恐れた残余島津軍は、御船城攻略放棄してその南にある花の山城撤退した天正13年1585年8月10日、親英が阿蘇氏旧臣糾合して花の山城攻め落とした。このとき、木脇祐昌鎌田政虎島津氏諸将及び、救援向かった深水長智嫡子摂津介、刑部牧野勘解由相良諸将戦死している。

※この「阿蘇氏の反撃」の解説は、「阿蘇合戦」の解説の一部です。
「阿蘇氏の反撃」を含む「阿蘇合戦」の記事については、「阿蘇合戦」の概要を参照ください。

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