中期ヘブライ語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:37 UTC 版)
「ミシュナー・ヘブライ語」も参照 聖書より新しい時代のヘブライ語としては死海文書の言語がある。また、ミシュナーやタルムードなどのラビ文献に使用される言語は後期聖書ヘブライ語から直接発達したものではなく、かつては学者によって人工的に造られた言語と考えられていたが、現在では西暦紀元後数世紀にわたって話されていた口語のヘブライ語を反映したものと考えられている。 おそらく135年のバル・コクバの乱の結果、多くのユダヤ人はアラム語地域であったガリラヤ地方へ逃れ、口語としてのヘブライ語は西暦200年ごろ滅亡したと考えられている。その後のユダヤ人の第一言語はアラム語やギリシア語になり、ヘブライ語は学者の使用する言語に過ぎなくなった。 ヘブライ文字は原則として子音のみを表したが、6世紀ごろからマソラ本文に点(ニクダー)を加えて正確な読みを注記することが行われた。当時は地域によって異なる伝統が行われ、東部(バビロニア)と西部(パレスチナ)では読みが異なっていた。現在使用されているニクダーはこのうちのティベリア式発音に基づくものであるが、その後のヘブライ語の変化によって現代の発音と表記の間にはずれが生じている。 その後さらにヘブライ語は変化していき、中世ヘブライ語(英語版)と呼ばれる一時期を迎えた。10世紀末にはイベリア半島のコルドバでイェフーダー・ベン=ダーウィード・ハイユージュが初のヘブライ語文法書を完成させている。一方各地に離散したユダヤ人は現地語を話すか、あるいはセファルディムが話すスペイン語に属するラディーノ語や、アシュケナジムが話すドイツ語に属するイディッシュ語、アラビア語圏で話されるユダヤ・アラビア語群といった、ある程度のヘブライ語の痕跡を残す現地語の変種を話すようになっており、一般的な話し言葉としては完全に使われなくなっていた。また典礼用のヘブライ語の発音方式そのものも地域によって違いが生ずるようになり、セファルディムは子音の多いセファルディム式ヘブライ語を、アシュケナジムは母音の多いアシュケナジム式ヘブライ語を使用するようになっていた。 中世に入って文献学者のヨハン・ロイヒリン(英語版)は非ユダヤ人にして初めて大学で聖書ヘブライ語を教授しカバラについての著書 (De Arte Cabalistica) を残し、ラビとしての教育を受けたバルーフ・デ・スピノザは死後に遺稿集とした出版された『ヘブライ語文法総記』で文献学的聖書解釈の観点からより言語語学的なヘブライ語の説明を行った。その冒頭部で、母音を表す文字がヘブライ文字には存在しないにもかかわらず「母音のない文字は『魂のない身体』(corpora sine anima) である」と記した。18世紀に入るとユダヤ人の間でハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動が起こり、聖書ヘブライ語での文芸活動が始まった。この動きは、のちの19世紀におけるヘブライ語の復活に大きな役割を果たした。
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