中期バロック
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17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特にオペラの発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていくことになる。 フランスでは、17世紀前半まで宮廷バレエ(ballet de cour)やエール・ド・クール(リュート伴奏による世俗歌曲)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身のマザラン卿がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。 ルイ14世の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。イタリアから招かれたジャン=バティスト・リュリ(1632年 - 1687年)は、ルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風のレチタティーヴォやアリアはフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、叙情悲劇(tragédie lyrique)を打ち立てた。この叙情悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。 この時期のフランスではリュリの他にもマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643年 - 1704年)がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、マラン・マレ(1656年 - 1728年)などのヴィオール奏者や、クラヴサン奏者たちが、器楽独奏による組曲の形式で多くの優れた作品を残した。 オーストリアや南ドイツでは、前時代に引き続いてより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。ウィーン宮廷はヴェネツィアから大勢の音楽家を招いてイタリア系音楽が盛んであり、イタリアでカリッシミやフレスコバルディに学んだヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616年 - 1667年)、ヨハン・カスパール・ケルル(1627年 - 1693年)といったドイツ人の音楽家も活躍しはじめた。ヨハン・パッヘルベル(1653年 - 1706年)はウィーンで学んだのちドイツ中部~南部のルター派圏で活躍した。彼らによってもたらされたオラトリオや教会カンタータといったイタリア教会音楽の新様式が、ルター派のドイツ語テクストにも適用されてドイツ独自の発展を遂げた。 北ドイツ・オルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としてはディートリヒ・ブクステフーデ(1637年頃 - 1707年)がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用のコラール前奏曲や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方で北ドイツ・オルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、チャコーナ、パッサカリアといった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。 イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半まではリュートの伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、ヴィオール族のためのヴァイオル・コンソートの音楽などがジョン・ダウランド(1563年 - 1626年)やウィリアム・ローズ(1602年 - 1645年)らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としてはヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、フランス風序曲やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。 このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ(1653年 - 1713年)が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法はトリオソナタやヴァイオリンソナタに典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、機能和声的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681年から1700年に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、合奏協奏曲の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。 フランソワ・クープラン(1668年 - 1733年)はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(L'Apothéose de Corelli)と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(Les goûts-réünis)(1724年)の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725年)は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、パルナッソス山に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。 イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660年 - 1725年)に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより古典期以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、三部形式のダ・カーポアリアの使用や、器楽におけるホルンの利用などから知ることができる。 このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器ではヴァイオリン族、管楽器ではフルート、オーボエといった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから古典主義的なもの、あるいは古典派音楽への遷移の始まりであったとみなす事もできる。
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