中期キャリア
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「マリアン・アンダーソン」の記事における「中期キャリア」の解説
第二次世界大戦と朝鮮戦争の間、アンダーソンは病院や基地で兵士を慰問した。1943年にはDARの招待に応じて、かつて歌うことを禁じられたホールで人種を区別しない聴衆へ歌を披露した。これはアメリカ赤十字社のための慈善事業の一環であった。彼女はこの出来事について次のように語っている。「ようやくコンスティテューション・ホールの舞台へ歩み出た私でしたが、他のホールにいる時と気持ちは変わりませんでした。勝利の感覚というものはありませんでした。美しいホールだと思いましたし、そこで歌えることをとても幸せに感じました。」対照的に、コロンビア特別区教育局は引き続き彼女が区内の高校の講堂を使用することを禁止し続けた。 1943年7月17日、コネチカット州べセル(英語版)でアンダーソンは建築家のオーフィアス・H.フィッシャー(1900年-1986年)、通称キングと結婚した。彼は10代の頃にアンダーソンに結婚を申し込んだことがあり、彼にとってはこれが2回目の結婚であった。式は合同メソジスト教会の牧師ジャック・グレンフェルにより私的に挙行された。その内容はグレンフェルの妻であるクラリン・コフィン・グレンフェル(英語版)が著書『Women My Husband Married, including Marian Anderson』の中で「The 'Inside' Story」として綴っている。 クラリン・グレンフェルによると式は当初牧師館で行われる予定であったが、直前になってべセル合同メソジスト教会の芝地で予定されていたベイク・セールが市内のエルムウッド墓地にあるエルムウッド教会へ移動し、結婚式が私的なものとなるよう取り計らったということである。 この結婚により、夫が前妻アイダ・グールドとの間に設けた息子のジェームズ・フィッシャーがアンダーソンの継息子となった。3年前の1940年にニューヨーク、ニュージャージー、コネティカットをくまなく探し、2人はダンベリーに100エーカー (0.40 km2)の農場を購入していた。フィッシャーは数年を費やしてこの土地に多くの離れを建て、そうした中には妻のために設計された防音使用のリハーサルスタジオもあった。一家は約半世紀にわたってこの場所を住居とした。 1955年1月7日、アンダーソンはアフリカ系アメリカ人として初めてニューヨークのメトロポリタン歌劇場の舞台に立った。この時の演目はジュゼッペ・ヴェルディの『仮面舞踏会』で、総支配人のルドルフ・ビング(英語版)に招かれた彼女はウルリカ役を歌った。アンダーソンは後にこの夜のことを回想して次のように述べた。「第2場で緞帳が上がると私がその舞台の上にいて、魔女のお茶をかき混ぜているのです。震えました、そして最初の音を歌い出す前に聴衆が拍手に拍手を重ね、私は自分の身が固く縮こまっていくのを感じたのです。」この公演の後に彼女がメトロポリタン・オペラの舞台に姿を見せることはなかったが、同社から永世社員の称号を贈られた。翌年には自叙伝『My Lord, What a Morning』を出版、ベストセラーとなった。 グスタフ・マーラー作曲『亡き子をしのぶ歌』 1. "Nun will die Sonn' so hell aufgehn" (4:40) 2. "Nun seh' ich wohl, warum so dunkle Flammen" (3:58) 3. "Wenn dein Mütterlein" (4:12) "4. "Oft denk' ich, sie sind nur ausgegangen" (3:03) 5. "In diesem Wetter, in diesem Braus" (6:11) アンダーソン独唱、管弦楽サンフランシスコ交響楽団、指揮ピエール・モントゥー 1950年 これらの音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 1957年には大統領ドワイト・D・アイゼンハワーの就任式で歌い、アメリカ合衆国国務省とAmerican National Theater and Academyの親善大使としてインド並びに極東地方を演奏旅行して回った。12週間かけて35,000マイル (56,000 km)を旅して24の演奏会を開催した。この後、アイゼンハワー大統領によって国際連合の自由権規約人権委員会の使節に任命された。同年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローにも選出されている。1958年にはそれまで務めていた米国の「親善大使」の役割を改め、正式に国連への使節に選任された。 1961年1月20日にジョン・F・ケネディの大統領就任式で歌唱し、翌1962年にはホワイトハウスのイーストルーム(英語版)でケネディ大統領や高官らを前に歌を披露するとオーストラリアへ演奏旅行に出た。1960年代には公民権擁護のために活動し、人種平等会議(英語版)、全米黒人地位向上協会、アメリカ=イスラエル文化財団(英語版)のために慈善演奏会を開催した。1963年にはワシントン大行進でも歌唱した。同年には改めて制定された大統領自由勲章の初回の31人の受章者のひとりに選ばれている。これは「アメリカ合衆国の国益や安全、または世界平和の推進、文化活動、その他の公的・個人的活動に対して特別の賞賛に値する努力や貢献を行った個人」に贈られる勲章である。アルバム『Snoopycat: The Adventures of Marian Anderson's Cat Snoopy』リリースしており、ここには彼女が可愛がった黒猫に関する短い話や歌が盛り込まれた。1965年には原子力潜水艦ジョージ・ワシントン・カーヴァーの名付け親になる。同年のうちに引退ツアーを完了したアンダーソンは公の舞台での歌唱から引退した。この世界ツアーは1964年10月24日のコンスティテューション・ホールを皮切りとし、1965年4月18日のカーネギー・ホール公演にて締めくくられた。
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