中期の買米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
藩の財政再建を目指した5代伊達吉村は、「大改」に失敗した後、享保14年から15年(1729年-1730年)ごろより藩士や百姓・町人から「借上」し、全家中から五分一役金を徴収して10万両の買米本金を用意した。この資金で農民や藩士からだけでなく盛岡藩からも米を買い上げ、15万石以上の米を江戸へ廻漕して売却した。享保17年(1732年)の享保の飢饉の際には米価が騰貴したため、50万両余の利益を得て、長年にわたる財政難から脱することができた。 勘定奉行の石川理兵衛の建議により行なわれたこの施策は、初期の買米と違って、家臣の知行米や農民の余剰米など領内全ての米の強制供出と独占、他領への移出厳禁、前金による買米の徹底などの特徴があった。御廻米方役人や郡方役人が指揮して、村々に割り当てられた買米を地方35ヵ所の買米蔵に納めた。御石改所により脱石・密石は厳重に取り締まられ、買米は藩の御用艜(ひらた)で石巻の港に送られた後、江戸に送られた。 江戸への廻米は、買米が10万石ほどで、家中の有役為登米が7万石前後、無役前金米が4、5万石前後、それに購入した南部米5万石前後を加えて計24、5万石ほどとなった。 しかし、藩の買米制が強化されたころから、領内で江戸廻米を行なっていた商人たちの経営は衰えていった。仙台藩の買米制は藩財政を再建させた一方で、藩内の商業の発達を抑制することにもなった。
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