中期の古代オリンピックとは? わかりやすく解説

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中期の古代オリンピック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 18:22 UTC 版)

古代オリンピック」の記事における「中期の古代オリンピック」の解説

オリュンピア大祭は、エーリス州のゼウス神殿建てられオリュンピア聖域にある競技場スタディオン等)で開催された。開催1ヶ月前に開催告げ使者ギリシア全体回り大会開催中1か月の間は休戦となった。のちに参加都市国家増えると、休戦期間はオリンピック開催時を含め前後合計3か月伸びた。この休戦期間をエケテイリアという。この休戦は、オリュンピアに向かう競技者観客の旅の安全を保障するためであったゼウス旅行者守護神であり、オリュンピア祭への旅の道はとりわけゼウスによって加護されると考えられた。そして、この禁を破った国はオリュンピア祭への参加拒否されたほか、他国から外交関係絶たれることにもなった。スパルタ実際に禁を犯してエケテイリアの時期他国攻めたため、オリュンピア大祭参加できなかったことがある。このほか、オリュンピアピーサ征服されエーリスが、オリュンピア大祭開催中オリュンピア攻め込んだこともあった。 大祭初期にはスタディオン走のみで1日終了した。のちしだいに競技種目増え紀元前472年には5日間の大競技会となっていた。参加資格のあるのは、健康で成年ギリシア人自由人男子のみで、女、子供奴隷参加できなかった。不正を防ぐため、全裸競技が行われ、指導者全裸だった。勝者には勝利(このの木の種類諸説あり)と勝利を示すリボンタイニア両腕巻かれゼウス神官よりオリーブの冠が授与され自身の像を神域に残す事が許された。 競技会大神ゼウス捧げられる最大祭典でもあった。祭りであるので殺し合い固く禁じられた。格闘技で相手殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかった。逆に勝者であれば死者であっても冠が贈られた。パンクラティオン相手降参するのと同時に倒れて死んだ勝者に対して審判が冠を授けたという。 審判きわめて初期エーリス王が当たったが、競技の数が多くなるエーリス市民からくじ選ばれた。選ばれ審判たちは、オリンピック間中神官として扱われた。審判エーリス設けられ専門施設競技規則について10か月渡り専門家から教え受けたその間に、続々各国から選手集まり1か月前になると、選手とともに合宿練習をして、練習試合の間にまた規則確認行った予選もここで行われた大会直前になると、エーリスからオリュンピアまで全選手役員が行進した。距離は50キロ以上になる。 競技会初日開会式儀式が行われ、最終日勝者のための宴が丸1日かけて催された。競技は間の3日間で行われた競技第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走のほか、ディアウロス走中距離走)、ドリコス走長距離走)、五種競技円盤投やり投レスリングボクシング拳闘)、パンクラティオン戦車競走走り高跳びなどがあった。少年競技の部もあったが種目少なかった最終種目武装競走だった。盾を手に1スタディオン走って往復する戦車競走では、勝者への冠は御者ではなく馬車所有者与えられた。このため女性オリーブの冠を授かった者が2名いる。体育のほか、詩の競演なども行われた女性の参加観戦に関しては、研究者の間で意見分かれている。そもそも競技大祭中は、オリュンピアには女は入れなかった、という説と、神殿競技場には入れずに、外でテント張って待っていた、という説と、競技場内でもフィールドに立ちさえしなければ実質的に咎めはなかった、という説と、未婚女性限り競技場観客席での観戦許された、という説がある。少なくともエーリス女神官が観戦していたことだけは確からしい女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされる(実質的に死刑)というルールであったが、記録に残る限り適用例はなく、象徴的なルールであったとも考えられるオリーブの冠を授かった者は、神と同席することを許された(競技会後、オリュンピア神殿敷地内優勝者の像がつくられることに由来する)者として、故郷盛大に迎えられた。祖国神殿に像が作られ競技者もいるし、税が免除されることもあった。いずれにしても祖国歴史にながく名が刻まれることになったマケドニア王国人々は、国政都市国家でない上に辺境住んでいたため、ギリシア人であるにも関わらず古代オリンピック参加していなかった。しかし、アレクサンドロス1世は自らの先祖ヘーラクレース主張し結果としてギリシア人であると認められ紀元前6~5世紀頃から古代オリンピック参加できるようになった。後にピリッポス2世カイロネイアの戦い勝利した際には、フィリペイオンというイオニア式トロス献納されている。アレクサンドロス大王アレクサンドロス名付けられたのも、ピリッポス2世古代オリンピック優勝した年に彼が生まれたので、それを記念しマケドニア王初め古代オリンピック参加したアレクサンドロス1世から名を取ったという。 ローマ人々も、神話によって自らの祖先ギリシア人であると証明し紀元前6世紀頃から既にギリシア都市国家混じって参加許されていた。このように神話によって民族系譜遡り、それが最終的にギリシア人へと行き着くならば、例えバルバロイであっても参加は可能であった

※この「中期の古代オリンピック」の解説は、「古代オリンピック」の解説の一部です。
「中期の古代オリンピック」を含む「古代オリンピック」の記事については、「古代オリンピック」の概要を参照ください。

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