中期の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:02 UTC 版)
晋中戦役と済南戦役の勝利は、太原外周の小店の戦闘は解放軍のすべてに太原攻略が比較的楽観できるとした。冬季の作戦行動を避けるため、解放軍は10月15日に太原戦役中期作戦を発動した。この段階で解放軍は地勢が平坦だが大兵力が守備している東南方向を迂回し、東山の防衛線を飛び越して、直接東山の主要なトーチカに攻撃をし、一挙に東山を切断することを企図した。これは太原攻撃で最も困難で、最も残酷な段階だった。 18日、現地共産党の秘密活動員の一人の案内により、西北野戦軍第7縦隊(彭紹輝)は小道から牛駱寨陣地(主陣地はトーチカとなっていた)を奇襲し、主要な陣地を占領した。19日の晩、第7縦隊の別の一部が大北尖などの重要陣地を攻略し、東山主峰の閻軍1個連隊(団)が投降した。第15縦隊の一部もまた石児梁を攻略した、しかし、第7縦隊の大北尖の貫通が終わっていなかったため、孟家井の3個連隊が太原に撤退してしまった。牛駝寨が攻略された後、閻軍は組織的かつ連続的に反攻し、国軍改編第30師団と残留日本軍を基幹とする第10総隊(今村方策)もまた援軍に来た。21日には、閻軍は牛駱寨を奪回した、けれども解放軍は孟家井以東を守備する閻軍を攻略できないでいて、閻軍は東山の全部を支配した。 10月26日、解放軍は再び四大要点に向かって攻撃を開始した。解放軍第15縦隊は15日間淖馬を攻撃し、閻軍第8総隊司令趙瑞の部下が戦場で投降し、淖馬争奪戦がようやく終結した。空輸されてきた国軍中央軍第83旅団と解放軍のもと皮定鈞旅団 が激戦を15日間行った後、解放軍第13縦隊は山頭を占領した。淖馬、山頭、小窯頭などの要塞が前後して攻略された後、解放軍は牛駝寨陣地を攻撃した。解放軍第7縦隊の度重なる進攻により最後には牛駝寨が奪取された。11月12日になり、解放軍は東山四大要点を完全に制圧した。閻軍の損失は20,000人以上となり、解放軍も死傷者16,500人余の人的代価を支払うこととなった。 その間、既に投降していた元国軍将校高樹勲を通じて、内戦に反対する国軍改編第30軍軍長黄樵松は解放軍に投降する準備の連絡をとっていた。その配下の戴炳南と仵徳厚は黄樵松の計画全般を閻錫山に報告していた。黄樵松は逮捕され死刑に処された。第1兵団政治部主任胡耀邦は黄樵松と代表して何度も交渉していて、もともとは胡耀邦が太原城内に潜入することとなっていた。後に別の人物が派遣され、計画の失敗とともに死刑に処された。 10月24日に、国民党軍華北剿匪総司令部は太原救援を目的とするためとして命名した「援晋兵団」を組織し、秘かに石家荘と中国共産党中央の所在する西柏坡の襲撃を企図した。中国共産党は既に察知し防備をしていた。このため11月初め、国民党軍は秘襲部隊を保定に撤収させた。
※この「中期の作戦」の解説は、「太原戦役」の解説の一部です。
「中期の作戦」を含む「太原戦役」の記事については、「太原戦役」の概要を参照ください。
- 中期の作戦のページへのリンク