中期の活動と戦後
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「ベンジャミン・ブリテン」の記事における「中期の活動と戦後」の解説
1939年、4月のドイツのポーランド不可侵条約の破棄や第二次世界大戦の勃発に伴うイギリスの参戦など当時の世界情勢に危機感を抱いたブリテンは、これを避けるため(兵役拒否の意味合いとして)6月にピアーズと共にアメリカへ向かった(オーデンは彼より先にアメリカへ行って移住している)。アメリカでは1942年3月まで2年半にわたって滞在し、主にニューヨークに住みながら創作活動を継続した。この1939年の有名な作品として、『ヴァイオリン協奏曲』(作品15、1950年改訂)やアルチュール・ランボーの詩による歌曲『イリュミナシオン』(作品18)などが挙げられる。 1940年に日本政府の企画する皇紀2600年奉祝曲としてイギリス文化振興会から作品委嘱を受け、『シンフォニア・ダ・レクイエム』(作品20)を作曲する。しかし曲の内容が祝典に相応しくないとして政府側が拒否し、演奏されることはなかった。作品は翌1941年の3月29日にニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会でジョン・バルビローリの指揮によって行われている。 イギリスに帰国した1942年の春、ブリテンは良心的な理由から兵役を拒否することを公的に認められ、サフォーク州のオールドバラに住んで、創作に専念する。この専念していた頃にテノール、ホルンと弦楽のための『セレナード』(作品31、1943年)やオペラ『ピーター・グライムズ』(作品33、1944年-1945年)などが作曲され、後者の『ピーター・グライムズ』はセルゲイ・クーセヴィツキーの勧めで着手され、1945年の初演では大きな反響を呼び、パーセル以来の本格的なイギリス・オペラの再興とまで謳われた。 1945年の『ピーター・グライムズ』の成功により、戦後のブリテンは創作力に恵まれ、かつ最も充実した時期でもあった。ヘンリー・パーセルの『アブデラザール』の音楽を主題に用いた『青少年のための管弦楽入門』(作品34、1946年)やオペラ『アルバート・ヘリング』(作品39、1946年-1947年)、『春の交響曲』(作品44、1949年)など一連の作品が作曲されたのもこの時期にあたる。 3作目のオペラとなる『ルクレティアの凌辱』(作品37、1945年-1946年)は前作とは異なった小編成の室内オペラで、1946年にグラインドボーン音楽祭で初演されたが、この経験に基づいて彼は室内オペラのジャンルに志向し、後の1947年に「イギリス・オペラ・グループ」の結成へと繋がった。1948年にはオールドバラ音楽祭を創設。音楽祭では自作の初演のみならず歌曲のリサイタルも行い、演奏活動に力を注いだ。 1956年2月、日本を訪れ、NHK交響楽団を指揮して自作を演奏した。また2週間滞在中に伝統芸能の能楽「隅田川」を鑑賞、深い感銘を受けて教会上演用の寓話『カーリュー・リヴァー』を生み出すことになる。 1960年から1961年にかけて作曲された『戦争レクイエム』(作品66)は、空襲で破壊されたコヴェントリー大聖堂の再建の献堂式のために書かれたもので、1962年に初演された。 1960年9月、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチと初めて出会う。親交を結び、彼のために『チェロソナタ』(作品65、1961年)と『チェロ交響曲』(作品68、1963年)を作曲する。この2作はいずれもロストロポーヴィチが初演時にチェロを担当した。
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