中期の作品(1861 – 1883年)
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「ジョヴァンニ・ファットーリ」の記事における「中期の作品(1861 – 1883年)」の解説
ファットーリの円熟期の作品は、鮮明かつ堅固な色斑(マッキア)を用いて描く外光派の自然の光と、スケッチを元にしてアトリエで大画面の作品を制作する伝統的手法とを総合したものであった。 1864年にはPromotrice fiorentina展にさらに4点の作品を出品している。風景画『パルミエーリのロトンダ(円形テラス)』(1866年)では、単純化された幾何学的構成と明瞭な色彩とが作品の構成要素となっている。1866年の後半には、フィレンツェ市内の新しく大きなアトリエへ移った。ファットーリはイタリア統一運動(リソルジメント)に関わる戦争画の注文を引き続き受けており、そうした歴史画用の大型キャンバスを収容できるような大きなアトリエへ移ったのであった。この時期の著名な作品として、サン・マルティーノの戦いのエピソードを扱った『マドンナ・デッラ・スコペルタの攻撃』がある。 1867年3月の妻の死の後、彼は同年の夏を批評家のディエゴ・マルテッリとともにカスティリオンチェッロで過ごした。マルテッリはマッキア派の理論家である。そこではジュゼッペ・アッバーティとともに野外での風景画や田園生活、市場で働く農民などのテーマを描いた。これらの作品で彼は単純な幾何学的構成による大胆な構図、そして強烈な光を強調した。この時期の作品としては『牛車と農夫のいるマレンマでの休息』(1873 – 75年)がある。 ファットーリは、1870年、パルマでの展覧会に、戦争画『クストーツァにおけるアメデオ・フェリート王子』を出品し入賞した。1872年、ローマへの旅行の途上、『テッラチーナの馬市場』(完成作は失われた)のための習作を描き、これによって1873年のウィーン万国博覧会で銅メダル、さらに1876年のフィラデルフィア万国博覧会でもメダルを得た。 1875年、フランチェスコ・ジオーリ、エジスト・フェローニ、ニコロ・カンニッチとともにパリを訪れ、『サロンでの休息』を出品。当時パリに住んでいたディエゴ・マルテッリを通してカミーユ・ピサロやイタリア出身のフェデリコ・ザンドメーネギなど多くのフランスの画家と接触した。しかし、彼は印象派にはあまり関心を示さず、バルビゾン派の画家たちを好み、エドゥアール・マネとコローを賞賛した。 ファットーリはこの頃から個人的に絵画のレッスンをするようになり、1869年からはフィレンツェのアカデミーで週2回教えるようになった(アメデオ・モディリアーニが後にそこの生徒になっている)。それでも彼は経済的困難に陥っていた。自分の描く戦争画がほとんど売れなくなったためである。彼は税金を滞納するようになり、フィレンツェに持っていた不動産が差し押さえられた。これに加え、膝の皿を痛めたことが彼をさらに追い詰めた。1878年、2枚の絵をパリの万国博覧会に送ったものの、彼自身は参加するだけの経済的余裕がなかった。1870年代後期以降の作品の荒々しいリアリズムには、彼の絶望感が見てとれる。1880年代には馬や牛など田園生活のテーマを主に描いた。1881年と1882年にはマレンマにあるコルシーニ家の領地を訪問した。この時の経験は牛の群れをテーマとした一連の作品に大きく実を結んでいる。これらの作品は1887年、ヴェネツィアの万国博覧会に展示された。
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