中期サルマタイ時代の遺跡とは? わかりやすく解説

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中期サルマタイ時代の遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 20:39 UTC 版)

サルマタイ」の記事における「中期サルマタイ時代の遺跡」の解説

サルマタイ文化中期サルマタイ時代最盛期迎えた。この時代文化サラトフ市の北のヴォルガ川左岸位置するスースルィ古墳群にちなんでスースルィ文化呼ばれるサルマタイの墓はヴォルガ川下流域から北カフカス黒海北岸ドナウ川流域にいたる広範囲分布するトルコ石ザクロ石練り物などを動物体躯などに像嵌した多色装飾動物様式を持つ金製武器馬具、ディアデム、容器などがイタリアおよびローマ辺境諸州から輸入され銀製容器などと一緒に発見されることがこの時代大きな特徴である。このような資料出土した例としては、ドン川下流域右岸のホフラチ古墳や、サドーヴイ古墳がよく知られている。とりわけサドーヴイ古墳出土多色動物様式金製馬具装飾サルマタイばかりでなく、ピョートル大帝シベリア・コレクションの中にも類例知られている。また、青銅製鍑も多数発見されている。鍑は前期サルマタイ時代から知られているが、この時代になると、さまざまな形態の鍑が登場している。主要な形式としては、胴部卵形で、半円形の柄に突起3つあり、垂直に立った柄の付け根から口縁部口ひげ形の小さな突帯が連続するように付き胴部の一番幅の広い部分縄目模した突帯がめぐるものであり、円錐台形の圏台がつくものと、圏台がないものとがある。また柄が動物形となるものもしばしば見られるこのような特徴的な資料は特にドン川流域中心に分布しており、当時サルマタイ文化中心がこの地域にあったことを示唆している。一方前期サルマタイ時代中心地であったウラル地方ではこの時代にはサルマタイ埋葬址が減少しており、サルマタイ全体的に西に移動したことを示している。中期埋葬多く先行する時代古墳利用した再利用墓であるが、一部は低平で比較小規模な古墳築いたものもある。埋葬儀礼前代とほぼ同様であるいる。墳丘では木炭や灰の層と馬や牡羊の骨が検出され、また時折青銅製鍑が発見されることで、埋葬後に墓上で火を炊き家畜生贄にして追悼が行われたことを物語っている。 ソコロヴァ・モギーラ ブグ川下右岸コヴァリョフカ市郊外のソコロヴァ・モギーラは青銅器時代造営され墳丘高6.4m、直径70mの古墳であり、さまざまな時代の墓が26作られていたが、墳丘中央部造られ3号墓中期サルマタイ時代のものであった。墓壙は深さ1.6m〜1.3m、プラン方形で、上から木材覆われていた。被葬者4550歳の女性で、仰臥伸展葬西南西にしていた。女性さまざまな形金製アップリケ縫い付けられ豪華な衣服着ていた。そして螺旋型のペンダントや、金製耳飾り3種類の頸飾り金製腕輪金製フィブラ金製ビーズなどの装飾を身に着けていた。被葬者頭部左側には銀製オイコノエとカンタロス右側には柄が銀製青銅鏡、柄が銀製金製がある木製団扇青銅バケツ容器など、足元右側には大理石容器アラバスター容器石製容器銀製匙、骨製など、足元に木製の壇があり、その上にガラス製皿、ファイアンス製皿、骨製団扇置かれていた。さらに、被葬者右側には護符みなされる遺物がまとめられていた。とくに注目されるのは鏡である。鏡面直径は13.3cm、鏡背は縁が盛り上がったサルマタイ特徴的な形式であるが、柄に丸彫りされた胡座して両手角杯を持つ有髭の人物東方的な特徴を示す。墓は金製フィブラなどにより、1世紀前半から中葉編年された。そしておびただしい各種容器護符団扇、鏡などの儀礼的な資料によって、被葬者サルマタイ高貴な巫女であった推定されている。 ダーチ1号墳 ドン川下流アゾフ郊外のダーチ1号墳耕作され墳丘の高さが0.9m、直径は35mが残存していた。墳丘中央位置する1号墓3.1×3.2m、深さ3.3mの方形竪穴墓であり、すでに攪乱受けて副葬品アンフォラガラス器の破片などわずかなものしか残っていなかった。しかしながら墓壙西側発見され方形隠し穴からは豪華な馬具セット短剣半球胸飾り、鹿形腕輪、が出土した馬具金製飾板が前面に付けられた馬覆い、銜留具両端金製象嵌円形小型ファレラが接合され鉄製轡、同様な楕円形のファレラ、半球形の金製胸飾り、縞メノウ象嵌された金製大型ファレラ1対などからなる大型ファレラのメノウ周り丸彫り風に表現され横たわる4頭のライオン取り巻いている。ライオンの目、腿、尻は象嵌されている。そして。ライオンライオンの間には大粒ザクロ石象嵌され、一方のファレラではそこに女性像彫り込まれている。さらにファレラの縁にはトルコ石ガラス象嵌めぐっている。また、メノウ頂点にも象嵌されたロゼット文が取り付けられている。短剣は柄と鞘が豪華な金製装飾版で覆われていた。装飾全体わたってフタコブラクダを襲う闘争文が繰り返されている。柄頭にはフタコブラクダ単独表現されている。鞘の基部先端部の両側半円形突出部があり、そのうち基部左側を除く3か所に同様な闘争文を表現する半球形の突起ついている基部左側突出部には体を後方へよじったグリフィン表現されている。動物体躯と鞘の縁にトルコ石ザクロ石細かく象嵌されている。特に縁に沿った象嵌サルマタイには珍しいひし形であり、トルコ石2個おきにザクロ石置かれている。半球胸飾り金製で、頂点円形珊瑚象嵌され、その周りトルコ石ザクロ石象嵌された連続三角文が2重に取り囲み四方同様な三角文の文様帯が伸びて縁をめぐる同様な文様帯に接続している。胸飾りの縁の一方側に1個の金製環が、反対側に2個の環がそれぞれ取り付けられている。鹿形腕輪金製であり、全体左右から2頭ずつ鹿が直列して向かい合い中央前肢の蹄を合わせている形であるが、各鹿の頭部枝角それぞれ輪から突出して表現されユニークなのである。鹿の胴部にはトルコ石珊瑚ガラス象嵌されている。墓は主体部発見され鉄製袋穂式鏃から1世紀後半編年されている。4か所の突出部のある剣の鞘はアルタイ木製鞘に起源があると考えられるが、金製象嵌装飾版の類例アフガニスタンのティリャ・テペと北西カフカスのゴルギッピアで発見され、また彫像表現された例としてはパルミュラアナトリア東部のアルサメイアで知られており、広範囲文化関係があったことが推測される。 ポロギ2号墳1号墓 ブグ川中流域のポロギ2号墳1号墓青銅器時代古墳中央部造られ地下式横穴墓である。地下式横穴墓ウクライナサルマタイ埋葬址では稀な型式である。羨道長さ3.5m、幅2.1mで、南側から墓室接続していた。墓室入り口は石で閉鎖されていた。墓室北西部男性被葬者木棺葬られていた。副葬品としては、鉄製環頭短剣鉄刀、鉄鏃金製帯飾板2対、金製首輪動物片手銀製杯などであった短剣は木の台に赤い革が張られた鞘に納まっていた。柄と鞘の上部に金製ライオン飾り、さらに鞘中央タムガ文の金製板が付き、さらに柄の上部と下部、鞘の4か所に連続ハート形文の金製飾りがあり、鐺には金製半球飾り3点ついていた。多色動物様式装飾された帯飾板の一方の1対の飾板は馬蹄形であるが、左右で形と幅が異なったのである。飾板中央にはライオンのような猛獣頭部丸彫り付き、その両側からグリフィン前肢猛獣後肢掴み噛みついているしかしながら猛獣背後には両手グリフィン後肢と尾を鷲掴みにした人物立っている。飾板の周囲方形象嵌めぐっている。人物の顔は丸顔で目が切れ長で、髪を剃って頭頂饅頭のように丸めており、モンゴロイド的な特徴をもっている。剣に見られタムガ文様西暦70年80年代黒海北岸オルビア発行されサルマタイ王イニスメウスの貨幣見られるものと同様であり、墓をそれと同時代編年することを可能にしている。 コビャコヴォ10号墳 ドン川下流ロストフ・ナ・ドヌー郊外のコビャコヴォ10号墳墳丘の高さが3m古墳である。墳丘下には激しく焼けた箇所があり、ローマ青銅容器断片発見されており、追悼が行われたことを示していた。古墳中央からやや南東側方形の墓壙があり、内部に2.5m四方正方形木槨墓室造られ2530歳女性埋葬されていた。女性は頭に赤色の薄い革で作られたディアデムを、頸には多色動物様式金製透かし状の首輪、腕にも同様な金製腕輪右手の指にも金製指輪をつけていた。ディアデムには薄い金製板を打ち抜いて作られ生命の樹中心にその両側に3頭ずつの鹿と2羽ずつの小円文のアップリケ取り付けられていた。首輪は、長髪有髭で長剣を膝に置く戦士の故座像中心にして、両側頭で鎧を着た空想的な3人の人物グリフィン闘争する図が表現されている。人物の耳や鎧、グリフィンの顎、耳、脚、胴、腿、翼などにトルコ石象嵌されていた。腕輪にはグリフィン連続して表現され、目、腿、爪などのトルコ石ザクロ石象嵌されていた。また、指輪には滴形の練り物2個が象嵌されていた。女性衣服にはロゼット文などのアップリケ多数縫い付けられていた。主な副葬品としては表面石膏塗布され木製小箱多色動物様式文様装飾されフラスコ型の金製小型香油入れ鉄製斧灰色磨研型土器鉄製ナイフ銀製匙、ライオン頭部正面観で表現する金製象嵌ファレラと半球青銅製ファレラ各2点鉄製轡などがあった。ディアデムの生命の樹と鹿・モチーフ香油入れはホフラチ古墳出土の例と類似してるが、首輪闘争図のモチーフセミレチエのカルガルゥの金製ディアデムに類例があり、長髪有髭の人物東方との関係が指摘されている。さらに、中期サルマタイ時代埋葬址から多数出土する鏡の大半柄鏡であるが、中国鏡やコビャコヴォの例のように中国からの搬入品も発見されており、サルマタイ中央アジア通じて中国間接的あるいは直接的に関係していたことを示している。コビャコヴォ10号墳1世紀末から2世紀編年されている。

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