中期サルマタイ時代の遺跡
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「サルマタイ」の記事における「中期サルマタイ時代の遺跡」の解説
サルマタイ文化は中期サルマタイ時代に最盛期を迎えた。この時代の文化はサラトフ市の北のヴォルガ川左岸に位置するスースルィ村古墳群にちなんでスースルィ文化と呼ばれる。サルマタイの墓はヴォルガ川下流域から北カフカス、黒海北岸、ドナウ川流域にいたる広範囲に分布する。トルコ石やザクロ石、練り物などを動物の体躯などに像嵌した多色装飾の動物様式を持つ金製の武器、馬具、ディアデム、容器などがイタリアおよびローマ辺境諸州から輸入された銀製容器などと一緒に発見されることがこの時代の大きな特徴である。このような資料が出土した例としては、ドン川下流域右岸のホフラチ古墳や、サドーヴイ古墳がよく知られている。とりわけサドーヴイ古墳出土の多色動物様式の金製馬具装飾はサルマタイばかりでなく、ピョートル大帝シベリア・コレクションの中にも類例が知られている。また、青銅製鍑も多数発見されている。鍑は前期サルマタイ時代から知られているが、この時代になると、さまざまな形態の鍑が登場している。主要な形式としては、胴部が卵形で、半円形の柄に突起が3つあり、垂直に立った柄の付け根から口縁部に口ひげ形の小さな突帯が連続するように付き、胴部の一番幅の広い部分に縄目を模した突帯がめぐるものであり、円錐台形の圏台がつくものと、圏台がないものとがある。また柄が動物形となるものもしばしば見られる。このような特徴的な資料は特にドン川流域を中心に分布しており、当時のサルマタイ文化の中心がこの地域にあったことを示唆している。一方、前期サルマタイ時代の中心地であった南ウラル地方ではこの時代にはサルマタイの埋葬址が減少しており、サルマタイが全体的に西に移動したことを示している。中期の埋葬の多くは先行する時代の古墳を利用した再利用墓であるが、一部は低平で比較的小規模な古墳を築いたものもある。埋葬儀礼は前代とほぼ同様であるいる。墳丘では木炭や灰の層と馬や牡羊の骨が検出され、また時折青銅製鍑が発見されることで、埋葬後に墓上で火を炊き家畜を生贄にして追悼宴が行われたことを物語っている。 ソコロヴァ・モギーラ ブグ川下流右岸コヴァリョフカ市郊外のソコロヴァ・モギーラは青銅器時代に造営された墳丘高6.4m、直径70mの古墳であり、さまざまな時代の墓が26基作られていたが、墳丘中央部に造られた3号墓が中期サルマタイ時代のものであった。墓壙は深さ1.6m〜1.3m、プラン方形で、上から木材で覆われていた。被葬者は45〜50歳の女性で、仰臥伸展葬で西南西を枕にしていた。女性はさまざまな形の金製アップリケが縫い付けられた豪華な衣服を着ていた。そして螺旋型のペンダントや、金製耳飾り、3種類の頸飾り、金製腕輪、金製フィブラ、金製ビーズなどの装飾を身に着けていた。被葬者の頭部左側には銀製オイコノエとカンタロス、右側には柄が銀製の青銅鏡、柄が銀製で金製の枠がある木製団扇、青銅製バケツ型容器など、足元右側には大理石製容器、アラバスター製容器、石製容器、銀製匙、骨製櫛など、足元には木製の壇があり、その上にガラス製皿、ファイアンス製皿、骨製団扇が置かれていた。さらに、被葬者の右側には護符とみなされる遺物がまとめられていた。とくに注目されるのは鏡である。鏡面の直径は13.3cm、鏡背は縁が盛り上がったサルマタイに特徴的な形式であるが、柄に丸彫りされた胡座して両手で角杯を持つ有髭の人物は東方的な特徴を示す。墓は金製フィブラなどにより、1世紀前半から中葉に編年された。そしておびただしい各種の容器、護符、団扇、鏡などの儀礼的な資料によって、被葬者がサルマタイの高貴な巫女であったと推定されている。 ダーチ1号墳 ドン川下流アゾフ市郊外のダーチ1号墳は耕作されて墳丘の高さが0.9m、直径は35mが残存していた。墳丘中央に位置する1号墓は3.1×3.2m、深さ3.3mの方形の竪穴墓であり、すでに攪乱を受けて副葬品はアンフォラやガラス器の破片などわずかなものしか残っていなかった。しかしながら墓壙西側で発見された方形の隠し穴からは豪華な馬具のセット、短剣、半球形胸飾り、鹿形腕輪、が出土した。馬具は金製飾板が前面に付けられた馬覆い、銜留具の両端に金製象嵌の円形小型ファレラが接合された鉄製轡、同様な楕円形のファレラ、半球形の金製胸飾り、縞メノウが象嵌された金製大型ファレラ1対などからなる。大型ファレラのメノウの周りを丸彫り風に表現された横たわる4頭のライオンが取り巻いている。ライオンの目、腿、尻は象嵌されている。そして。ライオンとライオンの間には大粒のザクロ石が象嵌され、一方のファレラではそこに女性像が彫り込まれている。さらにファレラの縁にはトルコ石、ガラスの象嵌がめぐっている。また、メノウの頂点にも象嵌されたロゼット文が取り付けられている。短剣は柄と鞘が豪華な金製装飾版で覆われていた。装飾版全体にわたって鷲がフタコブラクダを襲う闘争文が繰り返されている。柄頭にはフタコブラクダが単独で表現されている。鞘の基部と先端部の両側に半円形の突出部があり、そのうち基部左側を除く3か所に同様な闘争文を表現する半球形の突起がついている。基部左側の突出部には体を後方へよじったグリフィンが表現されている。動物の体躯と鞘の縁にトルコ石とザクロ石が細かく象嵌されている。特に縁に沿った象嵌はサルマタイには珍しいひし形であり、トルコ石2個おきにザクロ石が置かれている。半球形胸飾りは金製で、頂点に円形の珊瑚が象嵌され、その周りをトルコ石とザクロ石が象嵌された連続三角文が2重に取り囲み、四方へ同様な三角文の文様帯が伸びて縁をめぐる同様な文様帯に接続している。胸飾りの縁の一方側に1個の金製環が、反対側に2個の環がそれぞれ取り付けられている。鹿形腕輪も金製であり、全体は左右から2頭ずつ鹿が直列して向かい合い、中央で前肢の蹄を合わせている形であるが、各鹿の頭部と枝角はそれぞれ輪から突出して表現されたユニークなものである。鹿の胴部にはトルコ石、珊瑚、ガラスが象嵌されている。墓は主体部で発見された鉄製袋穂式鏃から1世紀後半に編年されている。4か所の突出部のある剣の鞘はアルタイの木製鞘に起源があると考えられるが、金製象嵌の装飾版の類例はアフガニスタンのティリャ・テペと北西カフカスのゴルギッピアで発見され、また彫像に表現された例としてはパルミュラやアナトリア東部のアルサメイアで知られており、広範囲な文化関係があったことが推測される。 ポロギ村2号墳1号墓 ブグ川中流域のポロギ村2号墳1号墓は青銅器時代の古墳の中央部に造られた地下式横穴墓である。地下式横穴墓はウクライナのサルマタイの埋葬址では稀な型式である。羨道は長さ3.5m、幅2.1mで、南側から墓室に接続していた。墓室入り口は石で閉鎖されていた。墓室北西部に男性の被葬者が木棺に葬られていた。副葬品としては、鉄製環頭短剣、鉄刀、鉄鏃、金製帯飾板2対、金製首輪、動物形片手銀製杯などであった。短剣は木の台に赤い革が張られた鞘に納まっていた。柄と鞘の上部に金製ライオン形飾り、さらに鞘中央にタムガ文の金製板が付き、さらに柄の上部と下部、鞘の4か所に連続ハート形文の金製飾りがあり、鐺には金製の半球型飾りが3点ついていた。多色動物様式で装飾された帯飾板の一方の1対の飾板は馬蹄形であるが、左右で形と幅が異なったものである。飾板中央にはライオンのような猛獣頭部が丸彫りで付き、その両側からグリフィンが前肢で猛獣の後肢を掴み噛みついている。しかしながら、猛獣の背後には両手でグリフィンの後肢と尾を鷲掴みにした人物が立っている。飾板の周囲は方形の象嵌がめぐっている。人物の顔は丸顔で目が切れ長で、髪を剃って頭頂で饅頭のように丸めており、モンゴロイド的な特徴をもっている。剣に見られたタムガ文様が西暦70年〜80年代に黒海北岸のオルビアで発行されたサルマタイ王イニスメウスの貨幣に見られるものと同様であり、墓をそれと同時代に編年することを可能にしている。 コビャコヴォ10号墳 ドン川下流ロストフ・ナ・ドヌー市郊外のコビャコヴォ10号墳は墳丘の高さが3mの古墳である。墳丘下には激しく焼けた箇所があり、ローマの青銅製容器断片が発見されており、追悼宴が行われたことを示していた。古墳中央からやや南東側に方形の墓壙があり、内部に2.5m四方の正方形の木槨墓室が造られ、25〜30歳の女性が埋葬されていた。女性は頭に赤色の薄い革で作られたディアデムを、頸には多色動物様式の金製透かし状の首輪、腕にも同様な金製腕輪、右手の指にも金製指輪をつけていた。ディアデムには薄い金製板を打ち抜いて作られた生命の樹を中心にその両側に3頭ずつの鹿と2羽ずつの鳥、小円文のアップリケが取り付けられていた。首輪は、長髪有髭で長剣を膝に置く戦士の故座像を中心にして、両側に獣頭で鎧を着た空想的な3人の人物がグリフィンと闘争する図が表現されている。人物の耳や鎧、グリフィンの顎、耳、脚、胴、腿、翼などにトルコ石が象嵌されていた。腕輪にはグリフィンが連続して表現され、目、腿、爪などのトルコ石とザクロ石が象嵌されていた。また、指輪には滴形の練り物2個が象嵌されていた。女性の衣服にはロゼット文などのアップリケが多数縫い付けられていた。主な副葬品としては表面に石膏が塗布された木製蓋付小箱、多色動物様式の文様で装飾されたフラスコ型の金製小型香油入れ、鉄製斧、蓋付灰色磨研型土器、鉄製ナイフ、銀製匙、ライオン頭部を正面観で表現する金製象嵌ファレラと半球形青銅製ファレラ各2点、鉄製轡などがあった。ディアデムの生命の樹と鹿・鳥のモチーフと香油入れはホフラチ古墳出土の例と類似してるが、首輪の闘争図のモチーフはセミレチエのカルガルゥの金製ディアデムに類例があり、長髪有髭の人物も東方との関係が指摘されている。さらに、中期サルマタイ時代の埋葬址から多数出土する鏡の大半は柄鏡であるが、中国鏡やコビャコヴォの例のように中国からの搬入品も発見されており、サルマタイが中央アジアを通じて中国と間接的あるいは直接的に関係していたことを示している。コビャコヴォ10号墳は1世紀末から2世紀に編年されている。
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