3号墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 05:14 UTC 版)
島根大学によって発掘調査された。方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7~8メートル、長さ6~7メートルの幅広大形で、中期後葉にはささやかな突出部であったが、後期後葉になると大きく幅広い突出部に発達している。この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっており、墳丘頂上には、八つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。その墓壙から他地域からの搬入されたものも多数含まれている。 方形周溝型弥生墳丘墓の周溝の堀残し部分が渡り土堤で出入り口になっており、それが四隅突出型弥生墳丘墓の突出部と関するのではないかとの考えも出されている。9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓である。江戸時代には仏教施設があり周囲に基壇が設けられていた。 1983年より詳細な調査が行われ、上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い。 墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。 現在、斜面に葺き石が施されるなど築造当時の姿に復元作業が行われている。
※この「3号墓」の解説は、「西谷墳墓群」の解説の一部です。
「3号墓」を含む「西谷墳墓群」の記事については、「西谷墳墓群」の概要を参照ください。
3号墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:35 UTC 版)
被葬者は利蒼夫妻の息子で二代軑侯、利豨。あるいはその兄弟。 遺体は腐敗して骨格だけが残り、科学的調査から30歳前後の男性と鑑定された。棺は三重で、外棺と中棺はいずれも外側が褐色の漆塗り、内側が朱の漆塗だった。内棺は内外とも漆塗で、刺繍と絨圏錦の縁取りを施した絹で装飾され、また蓋板は一幅の帛画が覆い、棺内の両側板にもそれぞれ各一枚の帛画が掛けられていた。副葬品は全て辺箱の中に置かれており、漆器316点、木俑106個、竹行李53個、遣策など、1,000点を数えた。 副葬されていた木牘から、埋葬年は前168年と見られる。文献では利豨は前165年に没したことになっているため、被葬者は氏名不詳の兄弟と考えられてきたが、近年、利豨の印が出土したため利豨とも考えられる。
※この「3号墓」の解説は、「馬王堆漢墓」の解説の一部です。
「3号墓」を含む「馬王堆漢墓」の記事については、「馬王堆漢墓」の概要を参照ください。
- 3号墓のページへのリンク