3号攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 04:24 UTC 版)
イラワジ前方の日本軍を駆逐したイギリス軍の第2師団はマンダレー西側地区へ前進し、第19インド師団はマンダレー北方のカブエット、チョウミョウにおいて渡河攻撃を行った。「第19インド師団は突出しており、これを撃破すればイギリス軍の軸心に打撃を与え、イギリス軍が主攻をかけるであろうマンダレー西側での渡河の企図も挫折させることが出来る」と第15軍は考えた。1月20日、第15軍司令官片村四八中将は3号攻勢を発動、マンダレー北方を守る第15師団に加えて第53師団と野戦重砲兵第5連隊が投入された。昼間は連合軍の航空部隊の優勢下にあるため、1月25日夜より日本軍は砲兵支援の下夜襲を繰り返した。第15、第53師団は英第19インド師団の橋頭堡の堅陣を抜くことが出来ず、逆に1月25日マンダレー西側のミンムが英第20インド師団に占領された。1月29日、マンダレー西側に危機を感じた第15軍は3号攻勢を中止。第15師団は2月8日まで独力で攻撃を続けて橋頭堡を拘束し続けていたが、多大な損害をこうむり、2月中旬よりマンダレーへの遅滞行動に移った。
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