調査の経緯と史跡指定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 05:14 UTC 版)
1953年(昭和28年)、出雲市大津町下来原(しもくりはら)字西谷の丘陵地で、出雲市立第一中学校の生徒によって散乱している土器片が発見された。この土器片は1956年(昭和31年)、同中学校の教員により「下来原西谷丘陵土器」として報告され、出土地点が「西谷丘陵遺跡」と名付けられた。この出土地点は、今日では西谷4号墓と呼ばれている。 1971年(昭和46年)に島根県立出雲商業高等学校の移転に伴う島根県教育委員会による事前分布調査により、1号墓・4号墓・5号墓が確認された。 1972年(昭和47年)、出雲市教育研究会による1号墓の緊急発掘調査で、これが四隅突出型墳丘墓であることが確認された。この時点で、この一帯は「来原古墳群」もしくは「西谷古墳群」と呼ばれていた。「西谷墳墓群」という名称は、1980年(昭和55年)に出雲考古学研究会が公表した『古代の出雲を考える 2 西谷墳墓群』で確認できる。 その後、1983年(昭和58年)より1992年(平成4年)までの10年にわたり島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生土器が出土し祭祀の跡も確認された。 2000年3月30日に国の史跡に指定された。 現在、1号墓~6号墓の並ぶ丘陵は「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が進められている(後述)。
※この「調査の経緯と史跡指定」の解説は、「西谷墳墓群」の解説の一部です。
「調査の経緯と史跡指定」を含む「西谷墳墓群」の記事については、「西谷墳墓群」の概要を参照ください。
- 調査の経緯と史跡指定のページへのリンク