初期の買米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
仙台藩での買米は、慶長15年(1610年)4月に閖上で米385石を買い上げたのが始まりとされるが、これは他藩でも行なわれたたぐいのもので、仕法としての買米ではない。伊達政宗治世の寛永年間にはすでに行われていたといわれ、寛永4年(1627年)7月の『石母田文書』に「かい米」という記述がみられる。 寛永12年(1635年)8月の『永沼文書』によると北上川通や鳴瀬川通の各「御役場」に「御廻米衆」「御廻米横目衆」を配置し、藩御用以外の米をすべて「わき米」として禁じている。これは1ヵ年のみの臨時的な買米であった。 買米制が本格化するのは2代藩主の伊達忠宗の時代からで、京都の蔵元を務めた商人大文字屋良怡が用立てた78700両を買米のための資金としたが、買米量は不明である。3代目の伊達綱宗の時代には江戸への廻米は年々15,6万石にのぼったとされる。 4代伊達綱村になると、買米のための資金を自力で用意することができなくなった。そのため、蔵元の商人からの借金で資金をまかなうようになるが、買米に関する権利を蔵元に譲渡することになった。蔵元からのわずかな金を買米本金として運営は続けられたが、買米制度は衰退し、元禄のころには一時中止している。
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