初期の軍事政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:52 UTC 版)
「ナチス・ドイツの軍事」の記事における「初期の軍事政策」の解説
1933年1月30日にヒトラー内閣が成立した。1月31日にヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣は軍に布告を行い、軍が引き続き超党派勢力として国民軍を指導する存在であると位置づけた。2月3日にはハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅でヒトラーと軍部首脳との会談が行われた。この中でヒトラーはヴェルサイユ条約の打破と東方への進出を説いた。ヒトラーは2月8日の閣議で「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、何時でも何処でも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と述べ、経済政策も軍事に従属させる意思を示していた。雇用創出措置民生中心から、「軍事的雇用創出の優位」へなし崩しに切り替えられた。しかし、軍事費を公債によって公然と調達すればインフレを招く危険性があった。 1933年5月、国防省とライヒスバンク、軍需企業によって「冶金研究会社」(ドイツ語: Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称MEFO)」というペーパーカンパニーが作成され、同社の振り出すメフォ手形による軍事費の調達が行われた。再軍備におけるメフォ手形の役割は極めて大きく、1935年度には82億2300万ライヒスマルクの軍事費が使用されているが、そのうちの55億ライヒスマルクがメフォ手形によって調達されたものであった。 一方で2月にはヘルマン・ゲーリングが航空担当国家委員(Reichskommissar für die Luftfahrt)に任命され、空軍の建設が始まった。3月にはドイツ航空スポーツ連盟(ドイツ語版)が設置され、5月5日にはゲーリングを大臣とする航空省が設置された。また陸軍航空部門(ドイツ語版)が航空省の管轄に移っている。
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