初期の軍制とは? わかりやすく解説

初期の軍制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)

東ローマ帝国」の記事における「初期の軍制」の解説

初期東ローマ帝国は、2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国軍事制度継承した軍隊は、リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州担任するドゥクス軍司令官)の指揮下で国境防衛あたった。コミタテンセスははるかに広い地域担当するマギステル・ミリトゥム方面軍司令官)の指揮下で大都市駐屯し帝国軍主力として戦地出撃した。野戦部隊辺境部隊比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。 歩兵依然ローマ軍主力ではあったものの、騎兵重要性拡大していた。例え478年には、東方野戦軍8000騎兵30000歩兵から編成され357年ユリアヌス帝はストラスブルグの会戦に於いて10000歩兵3000騎兵率いていた。 騎兵部隊細分化され、ローマ軍4分の1騎兵部隊構成されるようになった騎兵の約半数は鎧・・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃援護為に用いられた。 野戦部隊には"カタフラクタリイ"や"クリバナリイ"等の重装騎兵編成されていた。弓騎兵 ("エクイテス・サジタリィ")も含む軽騎兵("スクタリィ"、"プロモティ")は有用な斥候偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。"コミタテンセス"の歩兵レギオンアウクシリアヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊編成されていた。これらの重装歩兵・剣・盾・鎧・兜装備し軽歩兵隊の援護受けていた。 ユスティニアヌス1世軍隊ペルシア帝国脅威受けた5世紀危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前帝国軍編成消え代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊騎兵隊取って代わったタグマ300から400人で編成され2つ上のタグマモイラ2つ上のモイラメロス編成された。 ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。 帝都護衛隊 コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキアイリュリクムイサウリアから兵は集められた。 リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境要塞駐留し守備担っていた。 フォエデラティ蛮族志願兵から構成されローマ人士官の元で騎兵として編成された。 同盟軍フン族ヘルリ族ゴート族その他の蛮族から供給され、彼ら自身族長指揮していた。土地報償金見返りとして戦ったブケラリィ将軍貴族など高位人間私兵であり、野戦軍騎兵戦力として重要な地位占めていた。その規模雇い主裕福さ左右されていた。兵士ヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主皇帝厳粛な忠誠誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。

※この「初期の軍制」の解説は、「東ローマ帝国」の解説の一部です。
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