初期の軍事行動とは? わかりやすく解説

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初期の軍事行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:53 UTC 版)

コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「初期の軍事行動」の解説

アラブ世界成功コンスタンティノープルへ二度目攻撃可能なものにした。この計画は、ウマイヤ朝カリフワリード1世在位705年 - 715年)の下ですでに始められていた。ワリード1世死後、弟で後継者のスライマーン・ブン・アブドゥルマリク(在位715年 - 717年)がこの計画の実行着手したアラブ史料によれば預言者の名を持つカリフコンスタンティノープル占領するという預言存在によって正当性高まっていたといわれている。スライマーンソロモン)は、預言者の名を冠していた唯一のウマイヤ家人物であったシリア史料によれば新しカリフは、「アラブ人の国が消耗し尽くしてしまうか、都市占領するまでコンスタンティノープルとの戦い止めない」ことを誓ったウマイヤ朝軍は、カリフ直接指揮のもと、アレッポの北のダービク平野集合始めた。しかし、スライマーンは重い病に罹り自身指揮をとることができなくなったため、指揮異母弟のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)に委ねた。このコンスタンティノープル対す軍事行動ウマイヤ朝東西拡大続けている時期起こったイスラーム教徒軍隊トランスオクシアナインド、そしてヒスパニア西ゴート王国進出していた。 アラブ側準備、特に大規模な艦隊建設は、警戒をしていたビザンツ側に気づかれずには済まなかった。ビザンツ皇帝アナスタシオス2世在位713年 - 715年)は、表向きは平和を訴えることを目的としつつ、実際にアラブ側偵察することを目的として、貴族(パトリキオス)でコンスタンティノープル首都長官(プラエフェクトゥス・ウルビ)であるシノーペーダニエルを長とする使節団ダマスクス派遣した続いてアナスタシオス2世避けることが難しくなった包囲戦への準備始めたコンスタンティノープルの城壁修復されるとともに十分な数の投石機カタパルトおよび他の対攻城兵器)が準備され食糧市内運び込まれた。一方で少なくとも3年分の食糧備蓄できなかった住民避難したアナスタシオス2世海軍強化し715年初頭フォイニクス通常リュキア現代のフィニケ(英語版)と同一視されているが、ロドス島対岸のフェナケット(Fenaket)、もしくはレバノン杉森林知られるフェニキア現代レバノンであった可能性もある)に艦船建造のための木材集めに来たアラブ艦隊に対して海軍派遣した。ところが、ロドス島でテマ・オプシキオン(英語版)の兵士たち促されビザンツ艦隊反乱起こし指揮官のヨハネス・パパヨアナキスを殺害して北へアドラミティオン(英語版)まで航海した。そこで反乱者たち擁立されることに乗り気ではなかった徴税官テオドシオステオドシオス3世)を皇帝に推戴した。アナスタシオス2世反乱立ち向かうためにテマ・オプシキオンのビテュニア渡ったが、反乱軍艦隊コンスタンティノープル対岸クリュソポリス向かった。そこからコンスタンティノープルへ攻撃開始し夏の終わりに市内同調者たちが城門開いたアナスタシオス2世ニカイアで数か月抵抗したものの、最終的に退位し修道士となって引退することに同意したテオドシオス3世即位は、このテマ・オプシキオンの傀儡皇帝が他のテマ、特にそれぞれテマ・アナトリコンとテマ・アルメニアコン(英語版)のストラテゴス英語版)(長官であったレオン(後のレオン3世)とアルタバスドス(英語版)の反発引き起こしたため、文献ではテオドシオス3世意欲欠け無能な皇帝として伝えられている。 内戦に近いこのような状況の中、アラブ軍は慎重に準備され進軍開始した715年9月前衛軍を指揮するスライマーン・ブン・ムアドの下でキリキア越えてアナトリア進軍し途中で戦略上の要衝であるルロン英語版)の要塞占領したアラブ軍はキリキアの門(英語版)(キリキア低地平野アナトリア高原を結ぶトロス山脈の峠)の西側出口に近い不明の場所であるアフィク(Afik)で越冬した716年初めにスライマーン部隊アナトリア中部進入した。ウマル・ブン・フバイラ(英語版指揮下のウマイヤ朝艦隊キリキア沿岸航行し一方でマスラマ・ブン・アブドゥルマリクはシリア主力とともに状況進展待っていた。 アラブ人ビザンツ帝国内の不和アラブ側有利に働くことを望んだ。この時点でマスラマはすでにレオンとの接触確立していた。フランスビザンツ学者のロドルフ・ギラン(英語版)は、レオンアラブ人自分目的のために利用するつもりでいたが、その一方でマスラマに対してカリフ封臣になることを申し出ていたと論じている。一方、マスラマは敵側混乱最大限生かしビザンツ帝国弱体化させ、コンスタンティノープル占領という自身任務遂行容易になることを期待してレオン支援した前衛軍のスライマーン第一目標戦略的に重要なテマ・アナトリコン首府であるアモリオン要塞であり、アラブ軍は次の冬に基地として使用することを意図していた。アモリオン内戦混乱の中で無防備な状態であり、恐らく容易に陥落させることができたと考えられるものの、アラブ人テオドシオス3世への対抗勢力であるレオン拠点支援することを選んだアラブ人住民レオン皇帝として認めるのであれば降伏するであろう考え要塞に対して降伏条件提示した。しかし、要塞降伏受け入れたにもかかわらず動き見せずアラブに対して城門を開かなかった。そしてレオン少数兵士とともにアラブ軍に近づき要塞守備隊として800人を駐屯させるための一連の計略交渉実行した結局アラブ軍は目的妨害されることになり、物資不足しつつあったためにアモリオンから撤退したレオンピシディア逃れ、夏にはアルタバスドスの支援受けてビザンツ帝位宣言し公然とテオドシオス3世対抗したアラブ軍を退かせることに成功したレオンタイミング的にも幸運であった。それは、前衛軍が足止めされている間にアラブ軍の主力擁するマスラマがトロス山脈越えアモリオン向けて直進していたためである。さらに、マスラマはレオン二心のある取引知らせ受けていなかったため、マスラマが通過した土地、即ち同盟者領地であるとマスラマが信じていたテマ・アナトリコンとテマ・アルメニアコンの地を略奪して回らなかった。マスラマは退却してきたスライマーンの軍と合流し何が起こったのかを知ると目標変えた。マスラマはアクロイノンを攻撃し、そこから西部海岸地帯向かい冬の期間を過ごしたまた、その途上サルディスペルガモン略奪及んだ一方でアラブ艦隊キリキア越冬したその間レオンコンスタンティノープルへ進軍開始した。そしてニコメディア占領し、そこでテオドシオス3世息子側近たちを捕え、その後クリュソポリス進軍した717年春には短い交渉の後にテオドシオス3世退位自身皇帝となることへの承認確保し3月25日コンスタンティノープルへ入城したテオドシオス3世とその息子修道士として修道院引退することが認められ、アルタバスドスはクロパラテス(英語版)(皇族用の爵位)の地位昇りレオンの娘であるアンナ英語版)を妻に迎えた

※この「初期の軍事行動」の解説は、「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の解説の一部です。
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