初期の軍事行動
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「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「初期の軍事行動」の解説
アラブ世界の成功はコンスタンティノープルへの二度目の攻撃を可能なものにした。この計画は、ウマイヤ朝のカリフのワリード1世(在位:705年 - 715年)の下ですでに始められていた。ワリード1世の死後、弟で後継者のスライマーン・ブン・アブドゥルマリク(在位:715年 - 717年)がこの計画の実行に着手した。アラブの史料によれば、預言者の名を持つカリフがコンスタンティノープルを占領するという預言の存在によって正当性が高まっていたといわれている。スライマーン(ソロモン)は、預言者の名を冠していた唯一のウマイヤ家の人物であった。シリアの史料によれば、新しいカリフは、「アラブ人の国が消耗し尽くしてしまうか、都市を占領するまでコンスタンティノープルとの戦いを止めない」ことを誓った。ウマイヤ朝軍は、カリフの直接の指揮のもと、アレッポの北のダービクの平野に集合を始めた。しかし、スライマーンは重い病に罹り、自身で指揮をとることができなくなったため、指揮を異母弟のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)に委ねた。このコンスタンティノープルに対する軍事行動はウマイヤ朝が東西へ拡大を続けている時期に起こった。イスラーム教徒の軍隊はトランスオクシアナ、インド、そしてヒスパニアの西ゴート王国へ進出していた。 アラブ側の準備、特に大規模な艦隊の建設は、警戒をしていたビザンツ側に気づかれずには済まなかった。ビザンツ皇帝のアナスタシオス2世(在位:713年 - 715年)は、表向きは平和を訴えることを目的としつつ、実際にはアラブ側を偵察することを目的として、貴族(パトリキオス)でコンスタンティノープルの首都長官(プラエフェクトゥス・ウルビ)であるシノーペーのダニエルを長とする使節団をダマスクスへ派遣した。続いてアナスタシオス2世は避けることが難しくなった包囲戦への準備を始めた。コンスタンティノープルの城壁が修復されるとともに十分な数の投石機(カタパルトおよび他の対攻城兵器)が準備され、食糧が市内へ運び込まれた。一方で少なくとも3年分の食糧を備蓄できなかった住民は避難した。アナスタシオス2世は海軍を強化し、715年の初頭にフォイニクス(通常はリュキアの現代のフィニケ(英語版)と同一視されているが、ロドス島の対岸のフェナケット(Fenaket)、もしくはレバノン杉の森林で知られるフェニキア(現代のレバノン)であった可能性もある)に艦船の建造のための木材を集めに来たアラブ艦隊に対して海軍を派遣した。ところが、ロドス島でテマ・オプシキオン(英語版)の兵士たちに促されたビザンツ艦隊が反乱を起こし、指揮官のヨハネス・パパヨアナキスを殺害して北へアドラミティオン(英語版)まで航海した。そこで反乱者たちは擁立されることに乗り気ではなかった徴税官のテオドシオス(テオドシオス3世)を皇帝に推戴した。アナスタシオス2世は反乱に立ち向かうためにテマ・オプシキオンのビテュニアに渡ったが、反乱軍の艦隊はコンスタンティノープルの対岸のクリュソポリスへ向かった。そこからコンスタンティノープルへの攻撃を開始し、夏の終わりには市内の同調者たちが城門を開いた。アナスタシオス2世はニカイアで数か月間抵抗したものの、最終的に退位し、修道士となって引退することに同意した。テオドシオス3世の即位は、このテマ・オプシキオンの傀儡の皇帝が他のテマ、特にそれぞれテマ・アナトリコンとテマ・アルメニアコン(英語版)のストラテゴス(英語版)(長官)であったレオン(後のレオン3世)とアルタバスドス(英語版)の反発を引き起こしたため、文献ではテオドシオス3世は意欲に欠け、無能な皇帝として伝えられている。 内戦に近いこのような状況の中、アラブ軍は慎重に準備された進軍を開始した。715年9月、前衛軍を指揮するスライマーン・ブン・ムアドの下でキリキアを越えてアナトリアへ進軍し、途中で戦略上の要衝であるルロン(英語版)の要塞を占領した。アラブ軍はキリキアの門(英語版)(キリキアの低地の平野とアナトリア高原を結ぶトロス山脈の峠)の西側の出口に近い不明の場所であるアフィク(Afik)で越冬した。716年の初めにスライマーンの部隊はアナトリア中部へ進入した。ウマル・ブン・フバイラ(英語版)指揮下のウマイヤ朝の艦隊がキリキア沿岸を航行し、一方でマスラマ・ブン・アブドゥルマリクはシリアの主力軍とともに状況の進展を待っていた。 アラブ人はビザンツ帝国内の不和がアラブ側に有利に働くことを望んだ。この時点でマスラマはすでにレオンとの接触を確立していた。フランスのビザンツ学者のロドルフ・ギラン(英語版)は、レオンはアラブ人を自分の目的のために利用するつもりでいたが、その一方でマスラマに対してはカリフの封臣になることを申し出ていたと論じている。一方、マスラマは敵側の混乱を最大限に生かし、ビザンツ帝国を弱体化させ、コンスタンティノープルの占領という自身の任務の遂行が容易になることを期待してレオンを支援した。 前衛軍のスライマーンの第一の目標は戦略的に重要なテマ・アナトリコンの首府であるアモリオンの要塞であり、アラブ軍は次の冬に基地として使用することを意図していた。アモリオンは内戦の混乱の中で無防備な状態であり、恐らく容易に陥落させることができたと考えられるものの、アラブ人はテオドシオス3世への対抗勢力であるレオンの拠点を支援することを選んだ。アラブ人は住民がレオンを皇帝として認めるのであれば降伏するであろうと考え、要塞に対して降伏の条件を提示した。しかし、要塞は降伏を受け入れたにもかかわらず、動きを見せずにアラブ軍に対して城門を開かなかった。そしてレオンが少数の兵士とともにアラブ軍に近づき、要塞に守備隊として800人を駐屯させるための一連の計略と交渉を実行した。結局アラブ軍は目的を妨害されることになり、物資が不足しつつあったためにアモリオンから撤退した。レオンはピシディアへ逃れ、夏にはアルタバスドスの支援を受けてビザンツの帝位を宣言し、公然とテオドシオス3世に対抗した。 アラブ軍を退かせることに成功したレオンはタイミング的にも幸運であった。それは、前衛軍が足止めされている間にアラブ軍の主力を擁するマスラマがトロス山脈を越え、アモリオンに向けて直進していたためである。さらに、マスラマはレオンの二心のある取引の知らせを受けていなかったため、マスラマが通過した土地、即ち同盟者の領地であるとマスラマが信じていたテマ・アナトリコンとテマ・アルメニアコンの地を略奪して回らなかった。マスラマは退却してきたスライマーンの軍と合流し、何が起こったのかを知ると目標を変えた。マスラマはアクロイノンを攻撃し、そこから西部の海岸地帯に向かい冬の期間を過ごした。また、その途上のサルディスとペルガモンで略奪に及んだ。一方でアラブ艦隊はキリキアで越冬した。その間にレオンはコンスタンティノープルへの進軍を開始した。そしてニコメディアを占領し、そこでテオドシオス3世の息子や側近たちを捕え、その後にクリュソポリスへ進軍した。717年の春には短い交渉の後にテオドシオス3世の退位と自身が皇帝となることへの承認を確保し、3月25日にコンスタンティノープルへ入城した。テオドシオス3世とその息子は修道士として修道院に引退することが認められ、アルタバスドスはクロパラテス(英語版)(皇族用の爵位)の地位へ昇り、レオンの娘であるアンナ(英語版)を妻に迎えた。
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