創設までの経緯
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日本は、第二次世界大戦に敗戦後、「教育の民主化」などを求めたアメリカ教育使節団の勧告により、学校体系を「6・3・3・4制」(小学校6年間・中学校3年間・高等学校3年間・大学4年間)に一本化する単線型教育制度を導入するなどの学制改革を行った。これにより、旧制専門学校と、旧制高等学校を経て入学する旧制大学とに分化・階層化され、互いに交わることのなかった複線型教育制度が廃止された。 だが、1950年代(昭和25年-昭和34年)に入ると、吉田茂首相の私的諮問機関・政令改正諮問委員会は、教育体系の例外として高校3年と大学の2年または3年をあわせた5年制または6年制の農・工・商・教育等の職業教育に重点を置く「専修大学」(学校法人専修大学の設置する大学を指すものではない)制度の創設を答申。旧・中央教育審議会は、これに追随する答申をまとめた。日経連や経団連などの財界・産業界も、敗戦後の急激な工業化に即応するため、戦前型の旧制工業専門学校に見合う中級技術者養成を目的にした教育機関の新設を要求する「科学技術教育振興に関する意見」(日経連、1957年(昭和32年)12月)、「専科大学制度創設に対する要望意見」(日経連、1960年(昭和35年)12月)などの文書を次々と発し、制度の具現化を求めた。 政府は、これらの動きに対応して、専科大学制度を創設するため、学校教育法等の一部を改正する法律案を1958年(昭和33年)の第28回国会に上程。だが、日本短期大学協会は、暫定的な制度とされるも大学の一類型と見なされていた短期大学制度が専科大学に「格下げ」になるのではないかと反発。野党も「戦前の差別的な複線型教育制度を復活させるものだ」として反対したことから、第30回国会、第31回国会と3度法案を上程し、第30回国会、第31回国会では衆議院は通過するも審議未了廃案となった。 そのため、政府は、専科大学に代えて高等専門学校制度の創設を策定。専科大学は「深く専門の学芸を教授研究」を目的としていたものを、高等専門学校は「大学」の呼称を外したうえで「研究」目的を除外。さらに、工業分野に限定するなどの手直しを行い、大学・短期大学とは異なる教育制度であることを明確にしたうえで、第38回国会に学校教育法の一部を改正する法律案として上程。その結果、与党の賛成多数により、成立し1961年6月17日に昭和36年法律第166号として公布された。
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創設までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:24 UTC 版)
1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団(第1騎兵・第7歩兵・第24歩兵・第25歩兵)であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始している。その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。 7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。公表された書簡では左記の表記が採用されていたが、GHQ部内資料である「日本の安全保障諸機関の増強」(Increase in Japanese Security Agencies) においては「Constabulary」(警察軍)と称されており、アメリカが第2次大戦前にフィリピンで創設していたフィリピン警察軍(英語版) (PC)、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮で創設していた南朝鮮国防警備隊(現在の大韓民国陸軍)のような対反乱作戦部隊を想定していたものと考えられている。 日本に再軍備を認める事は、時の陸軍長官ケネス・ロイヤルから国防長官ジェームズ・フォレスタルに提出された答申「日本の限定的再軍備」で1948年(昭和23年)5月に確認された既定の事項だった(逆コース)。 1950年(昭和25年)8月10日、警察予備隊令(昭和25年政令第260号)が公布された。同第9条には内閣総理大臣の他に担当大臣を置ける旨の規定があり、実際に1951年(昭和26年)12月26日から1952年(昭和27年)7月31日まで国務大臣大橋武夫がその任に当たった。 長は警察予備隊本部長官(認証官であり、国務大臣ではなく官僚扱いとなる)であり、創設の1950年(昭和25年)8月14日から廃止される1952年(昭和27年)7月31日まで增原惠吉(後年、防衛庁長官)が務めた。長官を補佐する警察予備隊本部次長(現在の防衛事務次官)には、同じく1950年(昭和25年)8月14日付けで江口見登留が任命された。
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創設までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/13 09:10 UTC 版)
李氏朝鮮の軍事行政は議政府の1省である「兵曹」で管轄したが、外敵の侵入などの重大な国家的非常事態が発生した場合、議政府と六曹の大臣及び辺境の軍事責任者(知辺事宰相)から構成された国防会議で議論し決定した。しかしこの会議は緊急事態に即時に対応できず、16世紀に入り東アジアの情勢が流動化して、北辺の野人(女真族)や南方の倭寇の領海侵犯が頻発し、国境の軍事情勢が緊迫してくると事態に即応できるような臨時機関の必要性が高まってきた。 1510年(中宗5年)の「三浦の倭乱」の発生を契機に、長く議論されてきた辺境に備える役所として「備辺司」が最初に設置されたのは、1517年(中宗12年)6月のことである。その後「備辺司」は、1524年(中宗19年)北辺の女真族が閭延・茂昌に侵入し、これを撃退したとき、1544年(中宗39年)、大規模な倭寇として知られる「蛇梁倭変」の際、さらに1555年(明宗10年)の「乙卯倭変」などに際し設置され、この年以降、庁舎が創建され、官員が任命されて常設機関となった。
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創設までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 06:11 UTC 版)
ブルトンがスーポーに出会ったのは、1917年の春、詩人ギヨーム・アポリネールを介してであった。医学生であったブルトンは同年9月に同じく医学生として動員されてヴァル=ド=グラース陸軍病院に勤務していたアラゴンに出会い、スーポーに紹介した。3人の共通の関心はマラルメ、ランボー、アポリネール、ロートレアモン、アルフレッド・ジャリなど、その前衛性のためにまだ今日ほどには認められていなかった詩人であり、彼らの交友はやがて、パリ6区オデオン通り(フランス語版)に1915年に設立されたアドリエンヌ・モニエの書店「本の友の家」に集まる作家、詩人らへと広がっていった。 この時期、1917年5月18日にシャトレ座でジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』の初演が行われ、このプログラムを書いたアポリネールが初めて「シュルレアリスム」という言葉を用い、さらに、1918年にはシュルレアリスム演劇の先駆となった彼自身の戯曲『ティレジアスの乳房』が上演されるなど、新しい文学・芸術運動が次々と起こった。
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