本の友の家とは? わかりやすく解説

本の友の家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 17:45 UTC 版)

アドリエンヌ・モニエ」の記事における「本の友の家」の解説

第一次世界大戦中1915年11月15日23歳のときにパリ6区オデオン通り7番地に書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」を開店した。彼女は1951年閉店するまで36年わたってこの書店経営し戦間期1920年代から30年代にかけて多く文学者集まった場所、とりわけ当時次々と起こった前衛文学運動の拠点一つとして文化史名を残すことになった。「本の友の家」は当初書籍販売する書店というより、むしろ貸し出し中心とする図書館役割担っていた。本を借りるためにはまず「本の友の家」の会員になる必要があった。モニエはこの会費書店運営費充てフローベールボードレールから同時代作家まで、とりわけ象徴派詩人からポール・フォールフランス語版)、パスカル・ピア(フランス語版)、ジュール・ロマンレオン=ポール・ファルグポール・クローデルフランシス・ジャムサン=ジョン・ペルスアンドレ・ジッドポール・ヴァレリー、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブギヨーム・アポリネールブレーズ・サンドラールジャン・ポーランジャン・カスーまで新しい傾向文学作品評論次々と紹介した戦時中軍医補として動員されアンドレ・ブルトンルイ・アラゴン休暇中に立ち寄ったのもモニエ書店であり、戦間期にはダダイスト、シュルリアリストの拠点ともなりトリスタン・ツァラ、ジャック・リゴー(フランス語版)、フィリップ・スーポーピエール・ルヴェルディルネ・シャールらも会員となったブルトンは「本の友の家」を「当時様々な思想生まれた、最も魅力的な場所」と称した。後に会員になったシモーヌ・ド・ボーヴォワール回想録娘時代』や『女ざかり』で、店主モニエのことや抱えきれないほど多くの本を借りて帰ったことなどに触れている。作家評論家だけでなく大学教員学生なども会員で、1919年には「ガリマール書店」を設立したガストン・ガリマール映画監督ルネ・クレール、後に精神分析家ジャック・ラカンらも常連となった創業から5年後1920年会員数は580人、蔵書1926年18,400冊に達した

※この「本の友の家」の解説は、「アドリエンヌ・モニエ」の解説の一部です。
「本の友の家」を含む「アドリエンヌ・モニエ」の記事については、「アドリエンヌ・モニエ」の概要を参照ください。

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