アポリネールとの出会い
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「フィリップ・スーポー」の記事における「アポリネールとの出会い」の解説
1916年に動員され、アンジェの第33砲兵連隊に配属された。このとき、チフスのワクチンの臨床試験に被験者として参加したところ、高熱とせん妄が続き、除隊となった。療養中に知り合ったシュザンヌ・ピヤール・ヴェルヌイユと翌年10月に結婚。音楽家で当時ダンスの教師をしていたシュザンヌは、装飾芸術家モーリス・ピヤール・ベルヌーイの娘である(1920年代初めに離婚)。 療養中に偶然目にした雑誌の一つが、詩人、画家、彫刻家のピエール・アルベール=ビロ(フランス語版)が創刊した『SIC(フランス語版)』(Sons (音)、Idees (思想)、Couleurs (色彩) の頭文字をつなげた誌名)で、1916年7月の同誌第7号にはアポリネールの詩が掲載されていた。また、同年、小説『虐殺された詩人』が出版されたのを機に、アルベール=ビロはアポリネールにインタビューし、同年8月・9月・10月合併号に「新しい傾向」として掲載していた。スーポーはアポリネールの詩や思想に触発されて「出発」と題する詩を書き、1917年2月にこの詩をアポリネールに送った。当時、軍の病院に入院していたスーポーは、郵便物を送るために軍の許可を得る必要があったので「フィリップ・ヴェルヌイユ」というシュザンヌの姓を使った偽名で送った。3月初めにアポリネールから返信があり、『SIC』最新号(第15号)が同封されていた。「フィリップ・ヴェルヌイユ」の詩「出発」が掲載されていたのである。 退院したスーポーは、早速サン・ジェルマン大通り202番地のアポリネール宅を訪れた。兵役に志願して負傷したアポリネールが妻ジャクリーヌと一緒に暮らしていたアパートには、彼が『キュビスムの画家たち』で絶賛したピカソ、ジョルジュ・ブラック、マリー・ローランサンや、アンドレ・ドラン、ジョルジョ・デ・キリコ、アンリ・ルソーの絵が飾られ、アフリカやポリネシアの小彫像が置かれていた。アポリネールは、後に『カリグラム』に収められることになる詩「影」を即興で書き、帰り際には、詩集『アルコール』に「詩人フィリップ・スーポーへ、心を込めて」と献辞を添えて渡された。生まれて初めて、しかも大詩人アポリネールに「詩人」と認められたスーポーは一生詩を書き続ける決意をした。これ以後、二人は頻繁に会ってパリを散歩するようになった。アポリネールが主宰する雑誌『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』の編集室が置かれていたサン=ジェルマン=デ=プレのカフェ・ド・フロールでは、毎週火曜の午後にアポリネールを囲む会が行われ、フランシス・カルコ(フランス語版)、ラウル・デュフィ、マックス・ジャコブ、ジャン・コクトー、エリック・サティらが集まっていた。 1917年の春に、アポリネールは当時まだ軍医補であったアンドレ・ブルトンをスーポーに引き合わせた。二人は共に関心を寄せていたボードレール、ヴェルレーヌ、ランボーについて語り、スーポーはブルトンを通じてトリスタン・コルビエールやジェルマン・ヌーヴォー(フランス語版)を知った。また、アポリネールが出入りしていたアドリエンヌ・モニエの書店「本の友の家」も前衛芸術家・文学者の集まる場所となり、ここでコクトー、ヴァレリーのほか、ルイ・アラゴン、ピエール・ルヴェルディ、ジュール・ロマン、アンドレ・ジッド、レオン=ポール・ファルグ、ヴァレリー・ラルボーらと知り合った。同年5月18日、シャトレ座でジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』の初演が行われた。このプログラムを書いたアポリネールは、ここで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。ただし、この言葉を正式に用いたのは、翌1918年刊行・上演の彼自身のシュルレアリスム演劇『ティレジアスの乳房』においてである。
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