アポリネール - シュルレアリスム - 前衛芸術・文学活動の拠点
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「カフェ・ド・フロール」の記事における「アポリネール - シュルレアリスム - 前衛芸術・文学活動の拠点」の解説
1913年頃から同じサンジェルマン大通りの202番地に住んでいたギヨーム・アポリネールがカフェ・ド・フロールの1階に彼が主宰する月刊美術・文学雑誌『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』の編集室を置き、ここを活動拠点とするようになった。毎週火曜の午後にアポリネールを囲む会が行われ、フランシス・カルコ(フランス語版)、ラウル・デュフィ、マックス・ジャコブ、ジャン・コクトー、エリック・サティらが集まっていた。アポリネールはここで1917年にフィリップ・スーポーをアンドレ・ブルトンに紹介した。1917年は、シャトレ座でジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』の初演が行われ、このプログラムでアポリネールが初めて「シュルレアリスム」という言葉を使用した年であり、この2年後にはブルトンとスーポーにより自動記述の実験が行われ、この結果をシュルレアリスムの最初の作品『磁場』として発表することになる。また、トリスタン・ツァラが彼らによるパリ・ダダイスムに参加するために、活動拠点をチューリッヒからパリに移すと、彼もまたカフェ・ド・フロールの常連となった。 1930年代、パスカルという人気のギャルソンがいた。アルベール・カミュがその哲学的教養の深さから「デカルト」と名付け、1970年に引退するまでカフェ・ド・フロールの歴史において最も著名なギャルソンとして知られることになった。当時の常連には、カミュのほか、作家・政治家のアンドレ・マルロー、詩人のレオン=ポール・ファルグがいた。また、作家レーモン・クノーは、ジョルジュ・バタイユや、ブルトンによってシュルレアリスム運動から除名されたミシェル・レリス、ロベール・デスノス、ロジェ・ヴィトラック(フランス語版)らと頻繁に会い、1933年には、隣のドゥ・マゴで、アカデミックなゴンクール賞に対抗して、斬新で独創的な作品を積極的に評価するためにドゥ・マゴ賞を創設し、クノーの『はまむぎ』を選出した。 一方で、引き続きアクシオン・フランセーズの拠点として、ティエリ・モルニエ(フランス語版)やロベール・ブラジヤックも出入りしていた。作家が集まる場所は出版関係者にとっても重要な場所となり、この頃同地区に創設されたグラセ出版(フランス語版)(1907年創業)、ガリマール出版社(1911年創業)、ドノエル出版社(フランス語版)(1930年創業)、スイユ出版社(1935年創業)の経営者らが訪れていた。いずれも、ゴンクール賞(1902年創設)やルノードー賞(1926年創設)の受賞作品を多数出版していることで知られる。 1920年代から、前衛芸術・文学活動の拠点が、かつてピカソ、マックス・ジャコブ、モディリアーニらがアトリエを構えていたモンマルトルからサン=ジェルマン=デ=プレに近い14区のモンパルナスに移った。一時は、サン=ジェルマン=デ=プレ地区とモンパルナス地区は競合関係にあったが、後者はまもなく衰退し、これに伴って、アンドレ・ドラン、アルベルト・ジャコメッティ、オシップ・ザッキン、イヴ・タンギーらの画家がカフェ・ド・フロールに集まるようになった。 同じ頃、映画の発展に伴って、脚本家、映画監督らがカフェ・ド・フロールに集まり、議論を交わすようになった。特に脚本家のジャック・プレヴェールを中心とする、映画監督マルセル・カルネ、イヴ・アレグレ、ポール・グリモー、ジャン=ルイ・バロー、ロジェ・ブラン(フランス語版)、ポール・フランクール(フランス語版)らの「10月グループ」であり、ここに俳優のセルジュ・レジアニ、モーリス・バケ(フランス語版)、シルヴィア・バタイユ(ジョルジュ・バタイユの妻、女優)らも加わった。
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