上治郡大領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 07:55 UTC 版)
宝亀9年(778年)に外従五位下の位階を得た呰麻呂は、宝亀11年(780年)3月までに「上治郡」の大領の地位に就いていた。この「上治郡」について、上記多賀城出土漆紙文書から、「此治」の表記が検出されたことから、「上治」を「此治」の誤記とする見解が示され、有力な説となった。しかしその後熊谷公男の研究により陸奥国の郡制について検討が行われ、政府によって扶植された移民系の郡である栗原郡と、服属した狭義の蝦夷を編成した蝦夷郡である上治郡とは別の郡であるとする見解が示された。栗原郡と上治郡を別であるとする説は今泉隆雄、鈴木拓也、永田英明らによって支持されている。また、呰麻呂が後に乱を引き起こす発端となった、彼が夷俘として差別を受けていた事実および、俘軍との強い結びつきは、彼が移民を編成した郡の長でなく、服属蝦夷によって構成された郡の長であったことを示唆する。加えて、上治郡の設置が、呰麻呂が官人身分を得た宝亀9年(778年)から、郡名が記録上初見する宝亀11年(780年)までの間と考えられる一方で、栗原郡は神護景雲3年には設置されている。
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