海運の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)
清に入ると、運軍による直接徴収の禁止などの改革が行われたが、明代から続く諸問題の多くは構造的な問題となっており、更に一連の不当利得が利権化してしまったためにその改革も困難となっていった。 ところが、1845年に黄河の大氾濫が発生して大運河が土砂の流入によって利用が困難となると、これを口実として運河から海運への切替を唱える動きが現れた。既に海禁政策を放棄していた清は1848年に海運を一部で導入した。当初は既得権益を守ろうとする勢力への配慮から淮河以南と限定されていたが、太平天国の乱の発生やその鎮圧による財政難に由来した大運河の修復の遅延から、なし崩し的に範囲は拡大されていくことになった。更に1872年にはアメリカ系の汽船会社の買取を機に汽船による海運が本格化した。汽船の導入は従来の漕運手法を時代遅れとしていき、大運河修復の機運を失わせた。
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