アゾフ遠征とロシア海軍の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 03:45 UTC 版)
「露土戦争 (1686年-1700年)」の記事における「アゾフ遠征とロシア海軍の設立」の解説
ピョートル1世は、ドン川河口のアゾフを狙うという、クリミア・ハン国の本拠地のクリミアの遠征に拘ったソフィアより控え目な路線で南下政策に乗り出した。1695年、ロシア軍はアゾフ要塞を包囲したものの海からの補給を封鎖できず、アゾフ遠征(ロシア語版、英語版)は失敗に終わった。当時ロシアは1隻の軍艦も持っていなかった。 反省したピョートル1世は早速海軍の設立とヴォロネジでの軍船の建造に着手し、翌1696年4月までにガレー船と閉塞船27隻、1,300隻の平底川船が建造された。1月に兄のイヴァン5世が亡くなって、ロシアの単独支配者となったピョートル1世は再び4月末にスイス人フランツ・レーフォルト(英語版)が指揮するアゾフ遠征を行い、今度は海からの補給を断ち切って7月にアゾフ要塞を陥落させることに成功した。
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