アゾフ遠征と海軍創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:17 UTC 版)
「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「アゾフ遠征と海軍創設」の解説
この時期のロシアの主な港は年間数か月は氷に閉ざされる白海のアルハンゲリスクだけであり、黒海周辺はオスマン帝国の勢力下にあり、バルト海への出口はスウェーデンに奪われていた。 1695年に黒海への出口を求めてドン川畔のアゾフへ遠征が行われ(アゾフ遠征(ロシア語版、英語版))、ピョートルも一砲兵下士官として従軍したが、アゾフ要塞包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられ失敗に終わった。 このため、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設してわずか5か月でガレー船と閉塞船27隻、そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせた。これがロシア最初の海軍である。1696年に再度行われたアゾフ遠征はピョートル自らがガレー船に乗船して戦った。ロシア軍による水陸共同作戦によりアゾフは陥落し、ピョートルは海への出口を手に入れた。しかし、進出地点はまだ黒海内海のアゾフ海に止まり、更なる進出にはオスマン帝国に再び勝利する必要性があったが、ロシア単独では不可能なためピョートルは軍事から外交政策に転換した。
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