アゾフ遠征後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 03:45 UTC 版)
「露土戦争 (1686年-1700年)」の記事における「アゾフ遠征後」の解説
アゾフを占領し黒海進出の足がかりを得たロシアは、クリミア・ハン国にカッファでの奴隷貿易を禁止させ、クリミア・ハン国への貢納金の停止が決定される。1243年、ヤロスラフ2世がウラジーミル大公位につくためにバトゥに承認を受け、貢納金と兵力提供を確約されて以来、実に453年の歳月が過ぎて、ピョートル1世の手で名実共に「タタールのくびき」が断ち切られた。 ピョートル1世はさらに多くを望んで1699年に他の神聖同盟諸国とオスマン帝国との講和条約であるカルロヴィッツ条約が結ばれてもこれを認めなかったが、ロシア単独でオスマン帝国と戦うことを避けて1700年にコンスタンティノープル条約を結び、アゾフ城砦領有を確定させた。
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