新田一族との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 02:47 UTC 版)
やがて尊氏が建武政権から離反するとこれに従って以後武家方の有力武将として各地を転戦する。延元元年/建武3年(1336年)の新田義貞、楠木正成との間で行われた湊川の戦いにも山手軍の大将として参陣。楠木勢の退路を塞ぐなど勝利に貢献する。合戦後、尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇が吉野に南朝を成立させて南北朝時代となると、北朝の越前守護として主に北陸方面で南朝方と攻防を繰り広げた。 湊川の戦い後、新田義貞が尊良親王、恒良親王の両親王を奉じて越前へ入国すると越前での戦況は激化。延元2年/建武4年(1337年)に、越前で高師泰と共に南朝方の金ケ崎城(福井県敦賀市)を攻め、両親王を擁した義貞、義顕親子を破る。事実上の総大将であった義貞こそ取り逃がしたものの、尊良親王と義顕を自害させ、恒良親王を捕らえるなどの軍功をあげる。その後義貞の巻き返しによって府中や金ヶ崎城を奪われたが、高経は平泉寺の宗徒を自陣営に抱き込んで義貞の攻勢を防いだ。 そして延元3年/建武5年(1338年)閏7月、越前藤島の灯明寺畷においてついに義貞自身を討ち取る大功をあげた(藤島の戦い)。延元4年/暦応2年(1339年)からは義貞の弟脇屋義助が宮方の大将として立ち塞がり、一時は越前から加賀へ落ちるなど苦戦を味わったが、興国元年/暦応3年(1340年)に反攻をしかけ義助を美濃へ追い、興国2年/暦応4年(1341年)残る宮方勢力を討ち破り越前を平定した。 この間、嫡男の家長は奥州の北畠顕家への抑えと鎌倉に残った尊氏の嫡男義詮の補佐のため奥州総大将と関東執事に任命されたが、顕家の進撃を止められず延元2年/建武4年12月25日(1338年1月16日)に戦死している(家長の子孫は高水寺斯波氏として紫波郡に土着)。また弟の家兼は奥州の統治を任され、正平9年/文和3年(1354年)に奥州管領に就任。子孫は奥羽一帯に土着して大崎氏(奥州探題)・最上氏(羽州探題)等となった。
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