事件の契機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:04 UTC 版)
フェザーストン捕虜収容所では、捕虜たちは収容所内での作業の他に一週間に一回程度、道路清掃や芝生刈りなどの作業に動員されたが、捕虜たちは戦地で患った栄養失調やマラリアから完全に回復しておらず、一日の作業に出せる人数は30名が限度であった。とはいえ、収容所における捕虜の取り扱いは決して悪いものではなく、傷病兵は手厚い看護を受け、収容所所長も捕虜たちから「親日的」という評判であった。 しかし、2月中旬に収容所所長が交代し、新たな所長として陸軍中佐が赴任してきた。この陸軍中佐の印象について、暁の水雷長新屋徳治中尉は、 「すらっとした、細身の、口数の少ない、冷たい感じの、いかにも英国紳士の一典型といった人物であった」 — 土井全二郎 (2009)『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち--日本軍が初めて知った対米戦の最前線』 p.225 と自身の回顧録で述べている。 2月24日、収容所側はニュージーランド軍の警備兵の運動場造成工事のために50名の人員を出すように捕虜たちに要求した。この要求に対して、捕虜側は前述の事情で作業に出せるのは30名が限度であり、更に作業内容がニュージーランド軍の運動場造成工事ということで、敵の運動場を作るのは「利敵行為」であるとして憤慨した(軍の運動場造成の行為自体はジュネーブ条約の捕虜の労働規定には抵触せず)。前回の事件では穏健派であった安達少尉もこの要求には憤慨し、先頭に立ってニュージーランド軍と交渉したものの、収容所側は作業人員の減少について譲歩せず、交渉は決裂した。
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