事件の展開
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3人組はとし子の行動を監視するも、とし子は中々自宅から出てこない。ようやく「お山歩き」を始めたとし子の行動パターンを把握し、誘拐に成功する。しかし、とし子は誘拐の直後から3人組に対し「アジトは和歌山市内ではないか」「車はマークIIではないか」「怪しい人物がうろついていたと運転手から聞いていた」と次々指摘。健次は内心動揺するも、とし子と交渉し山間部に新たなアジトを確保する。そこはなんとかつて柳川家に勤めていて、とし子の忠実な家政婦だった中村くらの自宅であった。 くらの自宅に落ち着いたとし子と3人組。とし子と話しているうちに3人組の経緯等を話し、誘拐団の名はとし子の提案により「虹の童子」(映画版ではrainbow kidsともされている)となった。そして身代金について問われる。「5千万」という金額を聞いたとし子は、穏やかな表情が一変し突然激怒。「ナンボ言わはった?アンタ。私をなんと思うてはる!痩せても枯れても大柳川家の当主やで。みそこのうてもろうてはこまるがな!私はそんな安うはないわ」「端たはめんどやから金額は切り良く100億や!それより下で取引されたら末代までの恥さらしや!ええな!100億やで!ビタ1文まからんで!」と。なんと人質が金額の値上げを言ってきた。100億と言われた3人組は思考停止し、狼狽してしまう。そのあたりからとし子が徐々に3人組を実質的に操りだす。 時を同じくして、柳川家からとし子の誘拐連絡が駐在から地元所轄田辺署を経由して和歌山県警に入る。和歌山県警の井狩大五郎(いかり だいごろう)本部長は、青年時代さんざん落第を繰り返しながら柳川家の奨学金で東大を出た人物である。恩人とし子をさらった者に対する憤怒に燃えながらも冷静に、犯人グループに敢然と立ち向かう決意をする。かくして、とし子率いる「虹の童子」と井狩の、世界犯罪史上に稀に見る奇想天外な頭脳戦が始まった。 「虹の童子」はとし子が「出演」する生中継をTV局にさせるという大胆極まりない行為に出る。2台の中継車を駆使する複雑な作戦で、さらに、わざわざサイケデリックな迷彩を施した乗用車を使ってTVカメラの前で走り去るなどマスコミ受けする行動をした。さらに海外の新聞・通信社どころか米軍までもが注目するなど、この事件は劇場型犯罪となり世界中が熱狂した。 健次・平太・正義はとし子の影響で確実に自らを成長させてゆき、完璧なチームワークを発揮するようになった。常に覆面姿だった健次がとし子に素顔を見せた。とし子は彼の孤児園時代のやんちゃなエピソードをすらすらと容易に思い出した。健次は驚愕し、うれし涙を浮かべる。一方、ごく短期間で100億を用意するという一見無茶な要請をされた息子・娘たちも、資金調達に知恵を絞る中でそれまでの世間知らずのボンボン状態を一変させ団結・成長してゆく。
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事件の展開
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「2016年韓国プロ野球八百長事件」の記事における「事件の展開」の解説
2012年の韓国プロ野球八百長事件から4年後の2016年7月16日、NCダイノスの李太陽(以下、李)が数千万ウォンを受けて操作に臨んだという事実を告白し、NCより契約を解除された。 検察は李に勝負操作を依頼したブローカー2人を拘束して陳述を確保した。 ブローカーの曹某氏は7月初めに逮捕され、不法賭博サイトを運営した崔某氏は6ヶ月前に逮捕された後に1年2ヶ月懲役刑を宣告されて当時服役中だった。 20日にはJTBCの報道で首都圏チーム(斗山ベアーズ、LGツインズ、ネクセンヒーローズのいずれか)に所属する野手も捜査中という記事が浮かび上がった。 放送で使われた画面が木洞野球場で開かれたLGとネクセンの2014年の試合であり、打者は当時軍服務中だった文宇藍(以下、文)だと21日夜明けに明らかになった。 これでネクセン出身の選手が再び勝負操作にかかわったもようになった。 21日に李はお金をもらって勝負操作をした疑いで起訴され、文は勝負操作を謀議し提案した疑いで軍検察に移行された 。そして勝負操作を先に提案した人はブローカーでなく文だと明らかになって衝撃はもっと大きかった。 さらに24日には起亜タイガースの柳昌式(以下、柳)が勝負操作加担で自首をしたという記事が出た。しかし球団側に自首した時はただ一度操作に加担したといったが2014年4月19日の試合でもさらに操作し不法スポーツ賭博にまで参加していたことが判明した。これを受け、検察は不正賭博に関する捜査を開始。 柳の供述によって彼が関与した勝負操作の主な内容が「初回にフォアボールを出す」という事実が判明すると、KBOは1回フォアボールが出された1,950試合を伝授調査すると出た。 また、柳は第一の勝負操作で200万ウォン、第二の勝負操作で100万ウォンをブローカーより受け取っていたことが判明した。 27日聯合ニュース報道によれば新しく投手1人が検察の召還対象に上がったという。それも国家代表チーム出身に今年のシーズン最多勝20位内の投手だと指定された。また、柳は既に明らかになった2件だけでなく追加2件の勝負操作疑惑があると警察側で見ているという。他の内容の記事でも国家代表捕手出身であるBも疑いをかけられていると分かったと報道され、具体的に言及された選手は今年の年俸が2億を越える選手たちという内容が書かれた。 30日には勝負操作疑惑を受けている投手Aこと李在學を1軍から抹消したと明らかにした。さらに2010年引退した投手Lがこれと関連して召還調査を受けたという。 8月5日、今回の事件に関連して初めて開かれた初公判で李が検察から国民体育振興法違反で懲役1年、執行猶予2年、追徴金2,000万ウォンを求刑された。 8日に野球選手協会は緊急記者会見を持って謝罪および再発防止と調査に積極的に協力すると宣言した。そして次の日である9日に5個の球場で電光掲示板には謝罪文面が送出され選手たちは競技開始前におわびの挨拶を述べた。 8月26日に李には懲役10カ月、執行猶予2年の実刑判決が下された。李は刑量を減らすために控訴するといった。控訴自体は憲法に保障された国民の権利だが、すでに野球人生は終わったのに悪足掻きだと批判を受けた。また柳には懲役2年6月、3年間の失格処分が下された。柳は自首したため永久失格こそ免れたが契約するチームはなく、2017年は独立リーグに所属した後に現役引退。 9月7日、検察はNC球団を電撃押収捜索した。記事によればNC球団が選手たちの勝負操作事件を隠蔽しようとしていた疑いがあるとわかった。 さらに続いた記事で李在學の勝負操作情況を発見したという。これを受けてNCは李在學をプレーオフ・韓国シリーズのエントリーから除外した。 25日には2014年まで在籍していた李星民が勝負操作に関与していた事実をNCダイノスが隠蔽していたことが検察により発表された。李星民には勝負操作の嫌疑がかけられ2016年限りで当時所属していたロッテ・ジャイアンツから任意脱退処分となった。 11月7日10時にプロ野球勝負操作捜査結果を公開した。直、間接的にブローカー含む6人が加担したNC球団は元NC所属だった李星民の勝負操作事実を知ったにもかかわらず意図的に隠して新生球団特別指名保護選手名簿から除外しKTウィズが指名、10億ウォンの不当利益を得たと見た。 21日には文の証拠隠蔽情況が捉えられて法廷拘束された。この時点で李、文、李星民の3人は野球選手としての資格を失い、KBOはもちろんNPB、MLB、CPBLともいかなる契約もできなくなった。 7日勝負操作捜査結果無嫌疑で解放された李在學が斗山ベアーズ時代に不法賭博をしたと知らされた。そして前職・現職選手多数が7億ほどの不法賭博に加担した情況を警察側が確認した。 8日ハンファ・イーグルス投手の安承珉が不法賭博に加担した疑惑で検察に送検された。 9日には元斗山ベアーズ投手の陳ヤコプが李在學と共に不法賭博をしたことが明らかになったが公訴時効満了で不起訴処分された。 2017年2月、李星民の移籍料疑惑に関しての嫌疑が晴れた。 2017年11月に李星民には懲役8か月、執行猶予2年の実刑判決が下された 。李星民は控訴したが、前述の通り任意脱退公示されたため野球人生は既に終わっている。 2018年8月、李星民は控訴審でも有罪を宣告され刑が確定。 12月に李と文は一連の行為を謝罪する記者会見を開いた。またこの時点で李宅根による文への暴力事件も発覚し、新たな議論の火種となった。さらに、文がブローカーと初めて接触したのは李宅根による暴行を受けて入院している時のことだということも明らかになり、李宅根への非難も強まった。
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事件の展開
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八戸の記事を伝える清国礼部からの咨文は朴珪寿を通じ東津鎮(丙寅洋擾を受け大同江河口域に1867年に設置された防塞)の現場司令官にまで回覧されたことが分かっている。 八戸の新聞記事で最も朝鮮政府を刺激した部分は、①朝鮮が日本に朝貢を続けたとしている点と、②日本が朝鮮を討伐しようとしているという二点である。清を宗主国とする朝鮮が日本に朝貢しているというのは、たとえ誤情報に基づいていたとしても、清への忠誠心を疑われることになりかねない。そのため、朝鮮政府は清国に対して、朝鮮が日本に朝貢したという事実はなく、その他も事実無根であるとの弁解をただちに清の礼部に回咨した。同時に、対馬藩を通じて江戸幕府に対して、礼曹参判(内務大臣)・李沇応の名義による書契を送って八戸発言について詰問し、八戸が記す征韓計画についての説明を要求した。なお上記の二点のうち、日本への書契では②の点のみに触れて幕府の責任を追及しているものの、①については触れられていない。 礼曹書契は同年4月上旬に釜山草梁倭館に伝達され、直ちに対馬藩の手によって京都へ回送された後、5月15日に対馬藩在京家老の古川治左衛門から、老中板倉勝静へ提出された。板倉は江戸の幕閣とも協議を行い、6月5日対馬藩主宗義達に宛て、八戸順叔を「何れの漂民ニ候哉」と所属が確認できない人物であり、八戸記事を「無稽之説」として正式に否認すべき旨を命じた。板倉や慶喜にとっては、虚報でしかない八戸の記事よりも、前述した外国奉行平山敬忠の使節団の方が重要案件であり、むしろこの八戸記事への照会を利用して朝鮮側に対し、使節派遣を打診しようとしたのである。 翌日には慶喜の側近で目付の原市之進からも、返答の書契案について対馬藩に「日本が富国強兵のため、海外から大砲軍艦武器を購入しているために、そのような狂説が流布しているのかもしれない」と前置きしつつ、「日本から使節を派遣し、フランスとの調停を試みれば、日本の好意が伝わり、無根の妄言も氷解するだろう」と述べている。 この板倉・原の原案を元に、対馬藩は朝鮮礼曹への回答書契を作成した。従来の外交ルート通り、対馬藩はこれを倭館滞在中の講信大差使仁位孫一郎へ発送。6月29日、仁位から東莱府使の鄭顕徳にこの書契が提出された。こうして幕府から朝鮮政府に対し、正式に八戸記事を全面否定する説明がなされたことで、日朝間の外交懸案としての八戸事件は、ひとまず終結する。ただし同書契の中で、幕府から釈明のための特使(平山使節団を指す)の派遣が提案されていたことは、かえって朝鮮側の疑念を招き、「旧約の例になし」として、凶作・悪疫流行・外難を理由に拒否された。なおも慶喜や板倉が熱望した平山使節団は実現が遅れ、結局同年の11月25日(1867年12月20日)に軍艦蟠竜丸で江戸を出帆するが、大政奉還後の緊迫した情勢下、幕府と薩長軍との軍事衝突の可能性がにわかに高まったため、大坂上陸後に自然消滅している。 江戸幕府が公式に八戸発言を否定したことにより、事件は一応落着するに至った。しかしそれからわずか数箇月後、当の徳川慶喜が大政奉還したことにより、外交当事者としての江戸幕府そのものが崩壊してしまう。また日本による公式否定後も、清・朝両国では対日警戒感が収まることはなく、数年後の日清修好条規・日朝修好条規締結に至るまで、維新期の日本外交に支障を残した事件となった。
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事件の展開
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1963年5月1日 埼玉県狭山市大字上赤坂の富裕な農家の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後3時23分に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。 午後6時50分ごろ、心配した長男(当時25歳)が車で学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻っていなかった。 午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状であり、青色のボールペンで 以下のように書かれていた。 この項目では打ち消し線(取り消し線)を扱っています。閲覧環境によっては、適切に表示されていない場合があります。 少時(「少時」の部分には取り消し線が描かれている) このかみにツツんでこい 子供の命がほ知かたら4月29日(「4月29日」の部分には取り消し線が描かれている)五月2日の夜12時に、 金二十万円女の人がもツて前(「前」の部分には取り消し線が描かれている)さのヤの門のところにいろ。 友だちが車出いくからその人にわたせ。 時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。― 刑札には名知たら小供は死。 もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら 子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。 もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら 子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける, くりか江す 刑札にはなすな。 気んじょの人にもはなすな 子供死出死まう。 もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。 封筒の宛名には、「少時様」という意味不明の文字を消した上で、被害者少女の父親の氏名が宛字で記されていた。脅迫文の冒頭にも「少時」と書いたのを消した跡があった。同様に「4月29日」が「五月2日」、「前の門」が「さのヤの門」に書き換えられていたが、佐野屋に門は存在しなかった。 午後7時50分ごろ、長男は堀兼駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた。 脅迫状の指定時刻「五月2日の夜12時」が5月2日午前0時とも読めるため、5月1日23時40分、次女(当時23歳)が20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持ち、身代金受け渡し場所として指定された狭山市大字堀兼の佐野屋酒店の入口前で犯人を待った。 5月2日 午前0時半過ぎになっても誰も現れなかったため、張り込みの刑事5~6名 を含む全員が引き揚げた。 午前3時ごろ、狭山市大字入間川の畑付近で数匹の犬が一斉に吠えた。2日後、この付近から被害者の遺体が発見されている。 23時55分ごろ、次女はあらためて佐野屋酒店の前に立ち、20万円分の偽造紙幣を用意して犯人を待った。付近の茶畑や民家の庭の植え込みには、張り込みの刑事が40人潜んでいた。 5月3日 午前0時10分から15分ごろに犯人が現場にあらわれた。次女は犯人と約12分間にわたって会話したが、犯人は「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づき、0時25分ごろ「おらぁ、帰るぞ」と逃げてしまった。このとき、張り込みの刑事40人は、脅迫状の「友だちが車出いくからその人にわたせ」との文言を真に受けて車通りにしか配置を行っておらず、犯人を取り逃がしてしまった。犯人の声について、次女は「年齢は26~27歳から33歳くらい。ごく普通の声で、どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声であった」と証言。また、次女の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長は「中年の男」と証言。張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と証言している。 早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で見つかった。捜査官は、足跡の臭いを警察犬に追わせたが、1匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で追跡を停止した。もう1匹は、佐野屋から北側の川越方面に進んで停まった。夜明けに足跡の採取をおこなった結果、足跡は地下足袋(職人足袋)によるもので、権現橋方面に向かった後、市道をやや逆進し、さらに南側の畑に入っていた。 その権現橋のたもとにI養豚場があった。また、I養豚場の経営者の自宅もあった。I養豚場の経営者は被差別部落出身であり、従業員も被差別部落出身者が多かった。I養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、石川一雄の兄たちからも警戒されていた。権現橋はまた、被害者少女の通学路にもあたっていた。 朝、埼玉県警は記者会見を開き、本事件を公開捜査にすることを発表。上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と発言、中勲捜査本部長も「犯人は土地鑑があることは今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と発言した。 朝から警察官45人と地元の消防団員45人による雑木林の山狩りがおこなわれた他、捜査員165人による聞き込みが実施された。14時25分ごろ、狭山市大字入間川字井戸窪の山林内にて被害者の自転車の荷掛けゴムひもが発見された。 5月4日 10時半、殺害された少女の遺体が発見された。遺体は狭山市大字入間川(現:祇園21-20)の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていた。遺体には目隠しがしてあり、首と脚に細引き紐が巻かれ、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られていた。うつぶせに埋められた遺体の上には荒縄が置かれ、遺体の頭部には玉石が載せられていた。 19時から21時にかけて、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が、少女宅で司法解剖を行った。 遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞めたことによる窒息死であったが、警察側の五十嵐鑑定では「加害者の上肢(手掌、前膊或いは上膊)あるいは下肢(下腿など)による扼殺」とされ、弁護側の上田・木村鑑定などでは、被害者の首に見られる蒼白帯から、幅広い布による絞殺とされた。死亡推定時刻について、確定判決では5月1日午後4時20分ごろ とし、弁護側では5月2日 としている。 少女は生前に強姦されており、膣内から血液型B型でLe(a-b+)型の精液が検出された。両足には生活反応のある(生前に受けたことを示す)傷があり、手の爪には犯人のものとみられる皮膚片が挟まっていた。警察側鑑定では強姦とされ、弁護側鑑定では和姦とされた。 胃の中には粥状の食物が約250ml残っていた。法医学ではこれは最後に食事したときから2時間、長くても3時間以内に死亡したと推定される(それ以上経過すると胃の中の食物はほとんど腸に移動してしまうため)。 胃の中にはジャガイモ・ナス・タマネギ・ニンジン・小豆・菜(葉)・米飯粒の半消化物のほか、トマトが残っていた。後に同級生が法廷で証言したところによると、被害者が当日12時ごろ、昼食として摂った調理実習のカレーライス(ならびにその付け合わせ)には、トマトは入っていなかった。 後頭部には生前に負ったものと思しき裂創があり、おそらく転倒の際、角のある鈍体に衝突して生じたものと推定された。弁護側鑑定では、牛乳瓶2本分程度の出血があったとされた。 腹部や下肢に引きずられた痕があった。 処女膜には少なくとも1週間以上前にできたものとみられる亀裂があったが出血はなかった。ただし、処女膜の亀裂はスポーツなどによって生じた可能性もあり、事件前における性体験の有無は不明であった。 死斑の状態から、初め6時間以上にわたり仰向けにされ、その後うつぶせにされたものと推定された。
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