経営陣と対立、袂を分かつ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/29 15:22 UTC 版)
「ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ」の記事における「経営陣と対立、袂を分かつ」の解説
1933年頃からモロゾフ親子と葛野友槌の関係が悪化し始めた。発端は葛野が会社の会計帳簿をモロゾフ親子側に見せようとしないことにフョードルが不信感を抱いたことにあった。モロゾフ親子は会社の利益が一定の水準超えた場合にボーナスを受取る契約を交わしていたことから、葛野側がボーナスを支払うまいとして意図的に会社の業績を低く見せかけようとしていると疑うようになった。さらに会社の運営方針を巡り、多種多様な菓子を売り出したいモロゾフ親子と商品の種類を絞って大量生産すべきだとする葛野側とで意見が対立した。 両者の対立が表面化したのは1933年末であった。モロゾフ親子は神戸モロゾフ製菓設立後もトアロードに構えた店舗を所有し、同社製品に限り販売することができるという条件付きで菓子の販売を行っていたが、商品の代金の支払いを拒否したのである。モロゾフ親子側がこのような行動をとった動機は、かつて取引先から商品の返品と支払った代金の返還を要求された神戸モロゾフ製菓が商品の交換に応じた上でモロゾフ親子の給料から代金分を差し引いたことがあり、その時の金を取り戻そうとしたことにあった。モロゾフ親子の支払拒否は1年以上続き、葛野は1935年3月、フョードル宛に未払い代金の支払いを求める内容証明を送った。これに対しフョードルは会社の帳簿の検査を要求する内容証明で応じた。 5月1日、葛野側はトアロードの店舗への商品納入を打ち切った。これを受けてモロゾフ親子は6月1日、神戸区裁判所に商事調停を申し立て紛争の解決を図ることにした。1936年6月に調停が成立。条件の中には1941年6月10日までの間、モロゾフ親子が「モロゾフ」と読みえる商号を使用して菓子販売をすることや神戸モロゾフ製菓と同様の事業をすることができないというものが含まれていた。後にコスモポリタン製菓を設立(後述)したモロゾフは、重森守の取材を受けた際に次のように述べている。 私が本当のモロゾフ。でも、私の会社の名前、モロゾフじゃない。不思議に思う人、多いでしょうね。 — 重森1990、313頁。 また、ポダルコ・ピョートルは以下のように述べている。 この事件の展開、裁判過程、和解勧告などの経緯を理解するには、単にモロゾフとそのパートナーの間の主張だけで判断することはできない。つまり、当時の日本を取り巻く国際環境とその影響を無視することはできないであろう。「神戸モロゾフ製菓株式会社」の設立後、同年9月、満州事変が起こっている。また、和解勧告が出される1か月前に、2・26事件が起き、その年の11月には東西からソ連を牽制すべく日独防共協定が締結され、いわば日ソ間の軋轢のピークを迎えている。ソ連政権を承認せず、日本に亡命した白系ロシア人も、この時代の日本では、官吏を含めて大部分の日本人にとっては仮想敵国ソ連からの「ロスケ」であったのではなかろうか。 — ピョートル2010、123頁。 川又一英『大正十五年の聖バレンタイン 日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』によると、商事調停申し立ての後、福本義亮はモロゾフ親子の弁護人となったアメリカ人ウィリアム・シーボルトに対し、「手を引かなければモロゾフ一家を国外追放する」と通告した。福本はさらに、モロゾフ親子を神戸商工会議所理事長室に呼び出し、親子が「わが日本帝国を追っ払って満州国を乗っとろうとしている」アメリカ人を弁護人にしたことが事態を悪化させたと非難した後、調停の取り下げに応じる旨の書類にサインするよう迫り、親子がこれを拒むと以下のように告げた。 あんた方、こんな帝国の日本に住めて有難いじゃないですか。ロシアにいたら殺されてる。いいですか、白系ロシア人なんだから、おとなしくしていたほうがいい。 — 川又1984、129頁。 シーボルトはモロゾフ親子に対し次のように嘆いた後、弁護人を退任している。 こんなことはいいたくないが、ここはアメリカではなかった。外国人であるというだけでハンディキャップを負うとは……この国には法律はありません。 — 川又1984、126頁。 なお、神戸モロゾフ製菓株式会社発足から紛争が起こるまでの間に、葛野友槌の子・友太郎と福本義亮の娘が結婚し、葛野友槌と福本の間に縁戚関係が成立している。 調停成立後、モロゾフは条件に触れないよう、トアロードの店舗を利用してモロゾフの妹の名義で菓子の製造・販売業を営むことにした。父親のフョードルは製菓事業から手を引き独自に貿易業を営むことになり、新たな店の名前はモロゾフの名ヴァレンティンの英語表記から「Confectionery Valentine」に決まった。しかし1937年に日中戦争が始まると経済統制が行われ、材料の確保に苦労するようになった。1940年から1941年にかけては菓子作りのままならない日本を離れ、上海の白系ロシア人が経営する洋菓子店でチョコレート作りの指導を行った。 1941年11月、上海から帰国。帰国してから3週間後の12月8日に太平洋戦争が開戦した。モロゾフは菓子店の経営を断念し、家族とともに北神地区の大池に建てた別荘に疎開した。1945年6月5日には空襲によりトアロードの店舗が焼失した。
※この「経営陣と対立、袂を分かつ」の解説は、「ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ」の解説の一部です。
「経営陣と対立、袂を分かつ」を含む「ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ」の記事については、「ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ」の概要を参照ください。
- 経営陣と対立、袂を分かつのページへのリンク